第6話 団欒

金曜の夜、家の電話が鳴った。

そういえば、この家に来てから電話が鳴ったのは、これが初めてかもしれない。

現実の世界でも、電話が鳴ることはめっきり減った。多くはメッセージアプリかメールで、声を聞くことすら稀になっていた。

妻が受話器を取った。

電話口の声を聞くなり、妻の顔が綻んだ。

その表情は、男の心に、温かい陽だまりが広がるような感覚を与えた。

「あら、久しぶり。元気にしてた?家に帰れそうなの?じゃあ待ってるね」

受話器を持ちながら、妻は男の方に顔を向けた。

「来週末、あの子達が帰ってくるって。2人とも帰ってくるって不思議な感じだわ」

妻の声は弾んでいた。彼女にとって、子どもたちの帰省は、当たり前の喜びなのだろう。その屈託のない笑顔を見るたび、男の胸には微かな疼きが走る。

この世界の「幸福」が、あまりにも完璧すぎるがゆえの、小さな歪みのようなものだ。


「…ちょっと俺とも話させてくれ」


「あら、いいわよ。お父さんに代わるわね」


男は妻から受話器を受け取った。


「おう。元気か?」


「お父さんこそ元気にしている?いや、元気という言い方は変か」


長男の声だ。あの声が、受話器の向こうから聞こえる。現実では、もう何年も直接話していない。声を聞くだけで、胸が熱くなるのを感じた。


「ということは、やっぱりお前は面会に来る方の『お前』なんだな。これがweb面会ってやつか。思ったより自然に話せるな」


長男の声には、冷静な知性と、わずかな好奇心が混じっていた。やはり、あちら側の「現実」を生きている。


「そうだよ。そっちに面会へ行くには、機器への接続が必要になるけど、話すだけなら結構気軽に話せるんだね。今度からもっと電話するよ。そっちにも僕達はいるの?」


遠くの地の施設で機器に繋がれてまで、この世界に来てくれるのか。

その問いに、男の胸が締め付けられる。


「いや、いるのだろうが、少なくとも俺は会ったことがない。お母さんの中の世界だから、『なかなか会えない子供達』ということになっているのだろうな」


嘘をついているわけではない。ただ、この世界の「設定」を伝えているだけだ。それでも、言葉を選ぶたびに、どこか心がざわつく。


「なるほどね。それは良かった」


「こっちに来る時は、お前は新卒、弟は大学生ぐらいになるかな。おかしなことは話すなよ?」

釘を刺す。

この完璧な世界を、壊してはならない。彼女の平穏を、守らなければ。


「分かってるよ。事前に調べてみたけど、矛盾することを話すと、そっちでの生活に支障をきたすことがあるみたいだね」


やはり、あちら側も調べていた。

この世界で、平然と振る舞うことの難しさを、男は知っていた。


「ここは多分お前が思っている以上に現実だ。気をつけてくれよ。何日いるんだ?」


「5日。なかなか行けないから、2人で日程を合わせてまとまった休みを取ることにしたよ」


5日。たった5日。


だが、この世界で得られる「家族団欒」は、現実ではもはや夢物語だ。その貴重な時間に、男の心は震えた。


「そうか。それじゃあ楽しみに待っているぞ」

受話器を置くと、男は大きく息を吐いた。


身体の奥底から、喜びのような、あるいは安堵のような、温かいものが込み上げてきた。


「元気そうな声よね?ちゃんと食べているのかしら?」


男は中年の息子と話しているつもりだったが、妻は自分の中にいる、まだ若い子供と話をしていた。


俺からすると中年の声だったが、あいつには違って聞こえているのだろうか。


翌週金曜日の夜、家のインターホンが鳴った。

懐かしい姿の2人が玄関前に立っていた。

長男は、社会人になったばかりの、まだどこか初々しい表情。

次男は、大学生特有の、少し気だるげだが希望に満ちた眼差し。

現実では白髪が混じり、疲労の色が浮かぶ顔しか見ていなかった彼らが、そこにはいた。


「俺が出るよ」


キッチンで料理中の妻に声をかけ、男は玄関まで走った。

その足取りは、まるで昔の自分に戻ったかのようだ。

この身体は、この世界では、まるで若い頃のままだ。


「よお、久しぶりだな。2人とも白髪が全然ないじゃないか」


口をついて出たのは、現実とのギャップに対する率直な感想だった。


2人は少し軽く笑った。

「ここは思っていた以上に凄いね。水を触ると冷たいし、花から良い匂いがする」

長男の声が、驚きと興奮に満ちていた。彼の目も、この世界の完璧なリアルさに囚われている。

「そうだろ。でもそんなのは序の口だ。良いから、家に入ってみろ」

男は、まるで我が事のように誇らしげだった。

この「記憶の世界」を、自分の手で作り上げたかのような、奇妙な高揚感があった。


2人は頷き、玄関で靴を脱ぎ始めた。


「あら、おかえり。遠くまで大変だったでしょ?」


遠くから聞こえた声で、2人は固まった。その声は、何十年も変わらない、彼らが一番よく知る「母親の声」だったからだ。

次男はしばらく動けずにいたが、目元から涙が伝い落ちた。

嗚咽をこらえようと肩が震える。現実の母親は、もう彼らにこの温かい声をかけることはない。

その喪失感と、目の前の「母親」のリアルさが、彼の感情を揺さぶっているのが痛いほど伝わってきた。

男は2人の肩を叩き、


「な?凄いだろ?早く部屋に入れ」


と言い残し、キッチンへ向かった。

彼らの涙を直視することはできなかった。この完璧な世界が、現実の悲しみを呼び覚ますことを、男は誰よりも知っていたからだ。


「おーい。鍋の準備を初めていいか?」


玄関に残された2人は、互いの顔を見ながら何やら小声で話をしていた。「本当に、ママだ」「信じられない」そんな言葉が聞こえてくるようだった。

テーブルにすき焼きと手巻き寿司が並べられていた。

「うわ!これって…」

長男が思わず声を出した。

家族が揃う時、妻がいつも用意してくれていたメニューだった。

最後に出てきたのは10年、いや、15年ぐらい前のことかもしれない。

その食卓は、ただの食事の場ではなかった。家族の絆、過去の幸せな記憶、そして失われた日常への切望。すべてが、湯気の中に溶け込んでいるようだった。

その日は家族4人で久しぶりに食卓を囲み、夕食を楽しんだ。男は、まるで夢の中にいるような心地だった。だが、目の前の妻と子どもたちの笑顔、交わされる会話、肉を焼く音、すべてが現実よりもリアルだった。


翌日、4人は近所のスーパーへ買い物に行った。

「本当に凄いなこれ。記憶の世界というと、『本人が覚えていない所は曖昧になる』というのがSF小説の定番だけど、こんなお菓子まで当時のままじゃないか」

長男が菓子売り場の商品を手に取り、不思議そうに袋を眺めた。彼の顔には、純粋な驚きと、この不可思議な世界に対する探究心が浮かんでいた。

「俺もそれを最初不思議に思った。いつも行っていた所以外、行けないのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。当時のデータか何かを基に、世界が作られているみたいでな。試しに週刊誌を購入してみているのだが、ちゃんと連載が成立している」

男は、自分がこの世界の「発見者」であるかのように説明した。

その言葉の端々には、この世界に対する、ほとんど信仰に近いような信頼が滲んでいた。


「ふーん。そうなると、本当に記憶の世界を追体験しているわけではなくて、当時の世界を新たに生き直せるということなんだね」


長男は、冷静に本質を見抜いていた。その言葉に、男はわずかにたじろぐ。

「そうなるな。だからこそ、健常者の利用は制限されているのかもしれない」


そう。これは「追体験」ではない。新しい「生」なのだ。その重みが、男の肩にのしかかる。


菓子売り場で男3人が話をしていると、

「なに?何か欲しいお菓子でもあるの?あるならカゴに入れておいて!」


と、遠くから妻の声がした。

振り返ると、妻は少し離れた精肉コーナーから、笑顔でこちらを見守っていた。

彼女の目には、何の疑いも、不自然さもない。

ただ、愛する家族との買い物を楽しんでいる、その「今」だけがある。その純粋さが、男の胸を締め付けた。

長男と次男は、特に何をするでもなく、家族の時間を楽しんだ。

ただ、そこにいるだけでよかった。

失われた時間が、まるで嘘のように満たされていく。

5日目、彼等は家を後にする時間が来た。


「じゃあまた来るよ」


「お母さん、お父さんも元気で」


と、その年代の子どもが言いそうにない雰囲気で別れの挨拶を切り出した。

彼らの声には、感謝と、そして言葉にできない別れの切なさ、現実への帰還の寂しさが混じっていた。

この世界での「母親」との時間は、彼らにとって、何よりもかけがえのないものだったのだろう。


「2人とも元気でね。身体に気をつけてね」


妻がエプロンで手を拭きながら、心配そうな顔で2人を見送る。

彼女は、本当に「再会」を信じ、2人の身体を心配している。

この幸福な欺瞞を、男はどこまで守り続けることができるだろうか。


「俺、ちょっとコンビニに行きたいから、2人をバス停まで見送るよ」


男は2人に続いて、靴を履き、玄関ドアを開けた。


「どうだった?元気にしてるだろ?」


「元気という言い方が正しいのか分からないけど、本当に昔のままだね」


長男の声には、違和感と満足感が入り混じっていた。


「外から見ると寝てるだけなんだけどな」


「そうだろ。俺はまだ暫くここにいるから、また来てくれよ」


男は2人と握手をしたあと、肩を叩き、家に戻った。

ああは言ったものの、2人揃って長期間面会に来るのは、おそらく今回だけだろう。


長男と次男の目を見た。

あの完璧な「母親」の姿を目の当たりにした彼らは、もう二度と現実の母親の姿を受け入れられないかもしれない。

それは、この完璧な夢の世界がもたらす、残酷な現実だった。


時間と多額の費用がかかる。


でもそれでいいんだ。この夢のような時間を維持するためなら、どんな犠牲も厭わない。男の心は、そう決めていた。


俺とあいつは、今回のことを2人で思い出して楽しむことにしよう。(きっと妻は、子どもたちが帰省したことすら、数日経てば忘れてしまうだろう。それでも、この時間の幸福は、確かに存在したのだから。)


バス停からの帰り道、ふと、いつもと違うものを感じた。

街の風景がわずかに、輪郭をぼやけさせているように見えたのだ。

アスファルトのひび割れ、電柱に貼られた古いポスター、遠くの家々の窓の明かり。

どれもが、まるで精巧な模型を遠くから見ているような、微細な違和感がまとわりついた。

まるで、膜が剥がれ落ちるように、この世界の完璧さにひびが入ったような感覚だった。

その感覚は家に帰ると消えた。

しかし男の中で、残火のように燻り続けた。


その後、彼等がこちらに面会に来ることはなかった。

遠方に住んでいることもあるが、機器との接続を家族がよく思わないらしい。

手続きが煩雑な上、「面会は医療行為に相当するため、医師立ち会いの下、行う。面会中に問題が生じた場合、保険適用外となる」

という一文が気になるようだ。

他人の脳と自分の脳を接続するようなものだ。

第三者である彼らの家族から見ればグロテスクに見えるのだろう。

彼らの選択は理解できた。

だが、この「現実」を知った自分には、もう彼らの世界に戻ることはできない。

それでも時々web面会で電話をかけてくれた。


新社会人、大学生の子供の親との付き合いは、それぐらいが普通だろう。

妻にとってもそれが自然だ。


男は、この世界で「普通」を演じ続ける。それが、彼の選んだ「普通の暮らし」だった。

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