第5話 理解
妻の診断が下ってから、もう十年が経つ。
「記憶の中に潜る」なんて技術が出てきたのは、それからずっと後のことだった。
妻はおそらく、「記憶の中に潜れる」ことを知らない。
彼女は、何の疑いもなく、この日常を生きている。
その事実が、男の心を穏やかにさせる一方で、わずかな罪悪感も生んだ。
「……もしかすると、こいつは本当に今を生きているのかもしれないな」
男はふと、目の前のテーブルに目を落とした。
あの日、処分するか迷ったテーブルだった。
角にわずかな傷がある。引っ越しのときについた傷——それも、記憶通りだった。
男の視線の先で、妻は慣れた手つきでテーブルを拭くと、清潔な布巾を畳んで棚に戻した。
その動作一つ一つが、彼が知る昔の妻そのものだった。
まるで、昨日の続きであるかのように、自然で、淀みがない。
妻がカップを二つ並べる。
あれも、捨てられなかった食器だ。
食器棚の奥で埃をかぶっていたはずなのに、今は光っている。
彼女は、温かなミルクを少量注ぎ、先に男のカップにコーヒーを淹れ始めた。
マグカップから立ちのぼる、懐かしい香りに、男は思わず息を深く吸い込んだ。
この匂いは、現実で嗅ぐどんな香りよりも、鮮烈だった。
「これ、好きだったよね」と言われた気がして、男は思わず口を結んだ。
最近は、泥水みたいなインスタントばかりだった。
味も匂いも、とうの昔に忘れていたが、その香りを嗅いだ瞬間、記憶がフラッシュバックした。
またこのコーヒーを呑める日が来るとは。
カップから立ち昇る湯気すら愛しかった。
「明日、服を買いに行かない? 最近暑いし、雨も多いから、撥水機能が着いたズボンが欲しくて」
コーヒーの湯気越しに、妻が男の顔を覗き込むようにして口を開いた。
懐かしい感覚。
自分が面会に来ているという感覚が無くなってきた。
これは、もはや面会ではない。日常だ。忘れかけていた、あの頃の日常が、目の前で息づいている。
妻が言う洋服屋は、現実世界ではとうの昔に潰れている。
街が老い始め、人々がネット通販を多用するようになってから、近隣の店は尽く潰れた。
しかし、ここにはまだそれがある。
潰れたはずの店がある。あの頃の活気がある。この世界は、彼女の記憶が、最高の形で再構築した「理想の日常」なのだろうか。
通販サイトで欲しいものを検索し、買い物カゴに入れ、購入する。
最初の頃は近未来的なスタイルに見えて、使っている自分がクールに思えていたが、それが当たり前になった今、自動販売機でジュースを買うことと同列な行為となった。
妻と話をしながらウィンドウショッピングをして、目当ての商品が見つからずに肩を落とし、帰り道に回転寿司に行く。
当時は時間の無駄だと思っていたが、今思うとその時間が最も大切な時間だった。
あの頃は、未来が永遠に続くものだと信じていた。
だからこそ、こうした些細な時間を、どれほどおろそかにしてきただろうか。後悔が、胸を締め付ける。
「予定もないし、付き合うよ。ちょうどフェアも始まってるらしいし」
男は少し浮かれた声で言った。
「あら、またあの寿司屋に行くの?」妻は嬉しそうに目を細め、いたずらっぽく笑った。その表情は、彼がどれだけ長い間渇望してきたものだろう。
・
リビングに置いてある冊子でバスの時刻表を確認した後、妻が「行きましょう」と声をかけ、一緒にバス停まで歩いた。
まだ1時間に3本もバスがある。現実では本数が減り、ついには廃止されたはずの路線だ。
少し遅れてやってきたバスに乗り込むと、男は窓の外に目をやった。
外の風景は、かつてこの街が輝いていたころのままだった。
窓ガラスに映る自分の顔が、どこか若返って見えた。
公園では子供たちが走り回り、家々の外壁はどこも新しく塗り直されている。
今ではパチンコ屋しか残っていないあの場所にも、買い物袋を提げた家族連れの姿があった。
――そうだった。俺は、これを見て、ここに家を買ったのだった。
なぜこんな不便な場所を選んだのか、その理由をとっくに忘れていたが、今、その時の気持ちがはっきりと蘇る。
あの頃の俺は、この街と共に、きっと輝かしい未来を思い描いていたはずだ。
その希望が、今、目の前で再現されている。
この街はかつて、本当にまばゆい場所だったのだ。
ショッピングモールに到着する。
「画一的で面白くない」などと、かつては文句ばかり言っていたこの場所が、今はまったく違う景色に見えた。
あの頃は気づかなかった、当たり前の日常に隠された豊かさ。
人々が商品を手に取り、笑い、店員と談笑している。
飲食店の前には行列ができ、どこもにぎわっている。
ここには確かに、「人の営み」が生きていた。
「撥水ズボン、週末セールで20%引きみたい。急ぎましょう」
ぼんやりしていた男を、妻が軽く腕を引いて急かす。その手の温かさが、あまりに現実的で、男の心を強く揺さぶった。
買い物を終え、二人は回転寿司屋に入った。
寿司など、もう何年も食べていない。
一人で半額のパック寿司を口にすることはあっても、それはただの「空腹を満たす行為」でしかなかった。
「とりあえず、えんがわとコハダよね?」
妻がそう言って、回転レーンから皿を取った。
その仕草は、昔と寸分違わなかった。
頭ではわかっている。120円のえんがわが、本物のえんがわであるはずがないと。
だが、口に入れた瞬間、男は思わず目を閉じた。
パリッとした歯ざわり。芳醇な脂の香り。
舌の上にわずかに残る酢の尖り――。
それは、10年の時間を超えて、はっきりと“味”を思い出させてくれた。失われたと思っていた味が、確かにここにあった。
ただの記憶の再現ではない、現実と寸分違わぬ「体験」が。
「……こんなに味がするものだったか」
ぽつりと漏らした男の呟きに、向かいの妻は少し困ったように眉を下げ、首をかしげた。
「え? いつも食べてるでしょ? どうしたの?」
男は、何も答えず、ただ微笑んだ。
そうか。
こいつは、本当にここを“今”として生きているのだな。
そして、そんな彼女がいるこの場所は――自分にとっても、間違いなく現実なのだ。
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