第4話 普通の暮らし
「妻の記憶の中に、俺が入って、一緒に暮らすというのは――」
男が問いかけると、市役所の職員は顔を曇らせた。視線を机に落としたまま、重い口調で告げる。
「奥様の記憶に入られるということは、面会に相当します。しかし、本ガイドラインは長期間にわたる面会を想定しておりませんので……我々だけでは判断しかねます。国の判断を仰ぐ形になります」
職員の言葉を聞きながら、男の胸の奥には微かなざわめきが広がった。
「やはり無理か」と諦めかける一方で、「まだ終わったわけではない」とどこかで強く願う自分がいた。
国の判断を待つ間、男は粛々と家の整理を始めた。
妻が買ってきた食器、妻と選んだテーブル。どれも手に取るたびに、指先が鈍くなるような感覚に襲われた。
「これは残すべきか、いや、もう使うことはない」
頭では理解していても、身体が動かない。
結局、何も捨てられなかった。
「今日、妻に会いに行ってみようか」
ふと、そんな考えが浮かんだ。本当に元気な妻と話せるのだろうか。たとえ30分だけでも、声を聞きたい。
思いついた瞬間、胸がすっと軽くなるのを感じた。
それは期待というよりも、「確認したい」という切実な気持ちだった。本当にあの笑顔があるのか。自分の声に、反応してくれるのか。
そう思い始めた時、電話が鳴った。
市役所からだった。
「ご質問の件について、回答を得られましたのでご連絡いたします。結論から申し上げますと、長期面会は認められました。金銭的保障については、ガイドライン1項の規定により、年間2週間を超えた分は別紙2の金額が発生します。ただし今回は面会に相当しますので、1週間あたり30分については、別紙4の金額が保障されます。医師の診断を受けた後、再度市役所までお越しください」
感情のない口調のまま、電話は切れた。
近所の病院で簡単な診察を受け、書類を受け取った後、男は市役所へ向かった。
市役所から告げられた金額は、想像していたよりも高額だった。
家を売却した分を考慮しても、どうにか5年といったところだろうか。
しかし、男にとって、金額はもはやどうでもいいことだった。
「早く普通の暮らしに戻りたい」
それだけを胸に秘め、読む気になれないほど煩雑な書類の記入を進めた。
翌日、男は妻がいる施設に向かった。機器に繋がれた妻は、穏やかな表情で目を閉じていた。
男は妻の髪をそっと撫でながら、静かに呟いた。
「もうすぐ会えるな」
面会用ベッドに横になると、男の体に機器が接続された。
いよいよこの時が来た。
本当に妻に会えるのだろうか。
不安を抱きながら横たわっていると、肌を撫でる空気が柔らかく変わり、匂いが変わった。
男は自分の家の前に立っていた。
今と変わらない、しかしどこかまだ輝きを感じる自分の家。
花壇には季節外れの花が咲き乱れ、芝生もきちんと手入れされていた。
現実にはもう何年も見ていなかった風景だ。だが、妙なことに「違和感」はなかった。むしろ懐かしさよりも、居心地の良さが先にきた。
いつもより体が軽い。自分の手を見ると、皺が少ない。肌の張りも、関節の動きも、まるで昔のままだった。
「戻れた……」
男は息を呑んだ。
――妻に会える。
家のドアを開けようとするが、鍵がかかっていた。
ポケットを探るが、そこに鍵はなかった。
当然だ、と男は思い直す。これは「彼女の記憶」の世界なのだ。
自分は“外部”から来た訪問者にすぎない。
妙な気持ちを抱きながら、男はインターフォンを押した。
「はーい」
家の奥から、まるで昔のままの声が響いた。
ドアの鍵が回る音。
男の手に汗が滲む。
ただ“会う”だけのことに、なぜこんなにも緊張しているのか。
記憶に過ぎないと分かっていても、もし違っていたらどうしよう、という思いが首筋を這った。
ドアノブがゆっくりと回る。開いた隙間から差し込む光が、男の目を細めさせた。
そこには、記憶の中と寸分違わぬ妻がいた。
「あら、今日は早かったのね。金曜日なのに、飲みに行かなかったの?」
男は、瞬きすら忘れていた。声も仕草も、目の奥の柔らかさも、すべてあの頃のままだった。
これは俺の記憶ではない。記憶の中で生きている、妻の“現在”なのだ。
「お前がいるんだぞ。飲みになんか行くか」
照れたように笑いながら、男は一歩、玄関に足を踏み入れた。
扉の向こうには、過去ではなく、「今」が広がっていた。
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