第3話 過去に生きる人達

男はひとりで、天井を見つめていた。

シーリングファンの羽には、何層もの埃が積もっている。


「あいつのと違って、やけに面倒なんだな」


声に出してみると、部屋が広すぎると気づく。

認知症の診断がついた妻は、自分のサインと簡単な読み合わせだけだった。


だが、自分は違う。


男は深く息を吐き、市役所でもらった封筒を開いた。

書類には、赤線で注意書きが引かれていた。


健常者による申請は、自己負担が生じる。

書類の隅には小さく、「制度の趣旨をご理解の上、慎重な判断をお願いいたします」と書いてあった。


「記憶の中で生きる」

これが世に広まったのは何年前だっただろうか。

最初のきっかけは、医療現場での画期的な発見だった。

脳神経科学の分野で、特定の周波数の電気信号を脳に送ることで、過去の記憶を鮮明に「再生」できることが偶然に判明したのだ。

当初は、PTSD治療やリハビリテーションの一環として、患者の心の平穏を取り戻すために用いられていた。

だが、患者たちは口々に言った。


「これは、ただの再生じゃない。まるでその時に戻ったかのように、五感で感じる世界だ」


この発見は、瞬く間に世界中を駆け巡った。


その機器は、当初は病院の厳重な管理下で、非常に高価な医療行為として提供された。

しかし、技術の進歩は速かった。

数年後には小型化、低コスト化が進み、一般向けのサービスへと姿を変えていく。

メディアは連日、この「奇跡の技術」を取り上げた。

テレビでは専門家たちが熱弁を振るい、新聞の一面を飾らない日はなかった。

人々は競うように、自分が人生で「一番楽しかった時」の記憶を追体験することを選んだ。

ハネムーンの甘い日々、子供が生まれた瞬間の感動、青春時代の熱狂――。

誰もが「あの頃」に戻れることに熱狂した。


しかし、すぐに皮肉な現実が突きつけられた。

「一番楽しかった時」を実際に追体験してみると、期待ほどの満足感をもたらさなかったのだ。

「子供が産まれた日」や「結婚した日」といった特定の瞬間の追体験だけでは、幸福感が想像を下回るものに終わり、「自分が感じていた幸福感はこの程度だったのだろうか」と、かえって喪失感を覚える者も少なくなかった。

SNSには、「記憶のガッカリ体験」といったハッシュタグが溢れ、ブームは早くも翳りを見せ始めたかに見えた。


だが、人々の欲望は、より深い場所へとこの技術を押し進めた。

数年後、彼らは、「期間」としての幸福の追体験を得られるようになった。


「子供が産まれた日から1週間」「新婚旅行の1週間」といった、ある程度のまとまった期間を追体験することにより、人々の満足度は飛躍的に高まった。

短い休暇を取るように、記憶の中の「過去」へと旅立つことが、一種の贅沢なレジャーとして定着していった。

脳への負担軽減のため、現実の時間と記憶の中での時間の経過速度を同じに設定されていることから、費用と体力の問題もあり、記憶の追体験は長くても2週間というのが、制度利用者の“常識”だった。


この「記憶追体験」を巡る状況が大きく変わったのは、一冊の本が世に出た時だった。

その本は、ある資産家が「10歳から25歳を生き直した」という衝撃的な告白だった。

著者は若くして事業に成功し、莫大な資産だけでなく、社会的な地位も得ていた。

しかし、人生の虚無感に苛まれ、真の満足感が得られていなかったという。

そこで彼は、一般人では到底払うことが出来ない程の金額を払い、自らが最も幸福だったと信じる15年間を、実時間15年をかけて記憶の中で追体験することを思いついた。

それは最早、「記憶の中で生きる」という、途方もない人生のやり直しのように思えた。

この本の出版は、社会に賛否両論の嵐を巻き起こした。


「無駄な人生の繰り返し」「現実逃避の極致」といった批判が相次いだ一方で、「究極の幸福の追求」「人生を何回でもやり直せる可能性」と肯定的に捉える声も少なくなかった。

この論争を機に、長期間記憶の中で生きることが、世間的には1つの選択肢として認識され始めた。


しかし、その社会的な認識が決定的な変化を遂げたのは、あるニュースが報じられた時だ。


50歳の男性が、全ての資産を処分して得た資金と、死亡保険を使い、記憶の中で50年生きることを選んだことが大きく報道されたのだ。


「これは安楽死に相当するのではないか?」「現実からの逃避を国が推奨するのか?」

このニュースを皮切りに、制度に対する世論の評価は真っ二つに割れた。


特に、多額の費用を支払えば、記憶の中で死を迎えられるという側面は、人々に大きな衝撃と倫理的な問いを投げかけた。

国会でも連日激しい議論が交わされ、メディアは「新しい死生観」について特集を組んだ。


「記憶の中を生き、自分でも気が付かない内に、自然に人生を終える。記憶の中でコーヒーを飲んでいる時、テレビを観ている時、家族と団欒をしている時、急に意識が消え、死を迎える。周りに誰もいない病院のベッドの上で、天井を見ながら迎える死と、記憶の中での死。どちらが人間としての尊厳を感じるか?」


事実上の安楽死制度になりかねない側面があるにも関わらず、この主張に理解を示す声は大きく、国は一概に制限を設けることは難しくなった。


この時から、徐々に、レジャーを目的とした記憶追体験件数を、記憶の中で死ぬことを目的とした記憶追体験を希望する件数が上回り始めた。


年老いた人々は、全財産を処分して得たお金、退職金、そして死亡保険証書を手に、施設に行き、記憶の中で生き始めた。


施設の部屋は、なんとか1人、入ることが出来る程のスペースに区切られ、人々はその中で最後の生を楽しんだ。

その様子は、蚕の飼育のようだった。


変わりゆく施設の様子が報道されるにつれ、若者を中心として、記憶の中に潜ること事態に嫌悪感を示す風潮が芽生え始めた。


その一方で、この技術の新たな可能性も浮上した。

「家族了承のもと、認知症患者を機器に接続すると、記憶の中で健常者として生きていけることが分かった」という画期的な論文が発表されたのだ。

家族だけでなく、おそらく本人も辛いであろう認知症の対応に、新たな選択肢と希望が生まれた。

他の研究チームにより、閉じ込め症候群など、外とのコミュニケーションが極めて困難な患者にも応用可能であることが示された。


これらの事実を基に、国は世論の動向と医療界の要請を受け、本機器の使用に関するガイドラインを制定した。

これは、社会の混乱を収拾し、制度の利用を明確な形で方向付けるためのものだった。


1. 健常者(第二項の記載に該当しない者)の利用は原則として1年につき2週間を上限とし、医師の意見を踏まえたうえで必要と認められた場合に限り、追加接続を可とする。健康増進に対する有用性を鑑み、2週間以内の利用については、別紙1に記載された通りの金額を国が負担する。利用期間が2週間を超える場合、利用者は別紙2に記載された通りの金額を負担する。

2. 認知症、閉じ込め症候群及びその他国が定めた疾患に罹患した者については、医師の診断の下、別紙3に記載された通りの金額を国が負担する。


ガイドライン制定後、認知症、閉じ込め症候群、及びその他国が定めた疾患に罹患した者達の利用数は急増した。

それは、彼らにとって現実世界の苦痛から解放され、尊厳を取り戻す唯一の手段となったからだ。


しかし、ここで新たな問題が発生した。


一度記憶に潜った者は、外からの刺激に応じることが出来ず、実質的な面会が出来なくなるのだ。

記憶の中では健常者として生きている彼らが、現実世界ではただ眠り続けるだけの存在であることに、身内のことを思い、記憶の世界で生きてもらうことを選んだ親族達は心を痛めた。

会えるはずなのに会えない、話せるはずなのに話せない。

その断絶感は、多くの家族にとって新たな苦痛となった。

そこで国は、この問題を解決するべく、記憶の中での面会方法の開発事業を策定し、多額の研究開発費用を投じることを決めた。


患者の脳への負担を最小限に抑えるため、まずは「声だけ」という形の面会が採用された。


認知症、閉じ込め症候群という外とのコミュニケーションが難しくなっていた患者の親族達は、たとえ声だけの面会であっても、これを喜び、涙を流した。

昔の通り、会話が出来る喜びを噛み締め、何気ない日常の会話を交わすことに、失われた絆の温もりを感じた。


「毎週水曜の午後、彼女は同じ場所に座り、受話器を取る。声だけでいい、と娘は言った。かつてのように、“話せる”ことだけで、十分だった。」

——市提供広報ポスター「記憶接続支援制度」より


という広告は、多くの国民の胸を打ち、制度への理解と共感を広めた。


次に開発されたのは患者の記憶の中の人物として、面会をするという技術だった。

「声だけではなく、顔を見て話をしたい」「触れ合いたい」という、家族の切実で当たり前の要望から開発が急がれたが、顔を見て話す技術は、試験段階で大きな問題が生じたため、開発に時間を要した。


顔をみて話す面談をした多くの患者が、記憶内の時系列に齟齬が生じ、“記憶内自己”と“現実自己”の区別がつかなくなったためだ。彼らは記憶の世界で混乱し、精神的な負荷を負うことが判明した。


このような症状を呈した人々は、面会以降、記憶の中で正常に生きられなくなる可能性がある。

これは、患者の幸福を追求するという制度の趣旨に反する致命的な問題だった。


そこで、脳への負担を最小限に抑えつつ、視覚的な情報も得られる画期的な方法として、記憶の中の人物として面談をする方法が考案された。

これは、面会者が患者の記憶の中にある姿として現れるというものだった。

例えば、50歳の息子が20歳の大学生として、時には10歳の小学生として面会するという具合だ。

この方法での面会は、患者への負担が少ないだけでなく、面会者も当時の姿になることで、精神的負担が軽減されるという、思わぬ副産物が得られることが分かった。

現実世界での老いや病を抱えた姿ではなく、患者の記憶の中の鮮やかな姿として再会できることは、双方にとって大きな癒しとなったのだ。


「金曜日の夕方7時、母と一緒にドラえもんを観ながら夕食を食べる」

——医療機器メーカー広告より


面会希望者達の強い要望で、国のガイドラインが改訂され、以下の一文が追記された。

3. 面会対象者が第2項に該当する場合に限り、健常者による接続を週30分まで許可するものとする。なお、当該接続に係る費用は別紙4に定める金額を国が負担する。


「話せないのであれば、会っても無駄だ」と、施設に入れた後、面会者が訪れないことが問題視されていた時代など無かったかのように、親族は患者との時間を楽しんだ。面会室は家族の温かい笑顔と声で溢れるようになった。



男は机の上から老眼鏡を取り、書類への記入を始めた。

男は目を閉じ、この家での思い出に浸った。

そこにはいつも妻がいた。


「俺しかいない家に価値は無い」


そう呟くと、男はテーブルの上から不動産屋と家財処理業者のチラシを手に取った。

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