第2話 孤独

「もう無理だ」

今年で70歳になる男が呟いた。


男は現在、広い家に妻と2人で暮らしている。

妻は数年前に認知症を発症した。

昔のことはよく覚えているのに、今さっき交わした会話すら、もう彼女の中にはなかった。


「ねえ、あなた。お洋服を買いに行きたいわ。最近暑いじゃない?ほら、あのお店よ、昔よく行ったでしょう?」


男は優しい声で答える。

「ああ、あの店から。あの店なら何年か前に、無くなったよ。」


「あら、そうなの?じゃあ、服をどうしましょう。あなたの服もボロボロじゃない。」


妻は心配そうに男のシャツに触れる。


「俺のはいいんだ。お前が着るものの方が大切だ。」

男は心の中で呟く。


妻は突然、窓の外に目をやり、「あら、はやくお花が咲かないかしらね」と、別の話題に移る。そのたびに男の心は静かにすり減っていく。



子供達は大学進学を機に家を出た。

良い大学を出て、大企業に入社した自慢の子供達。

子育てと仕事で忙しいのだろう。

近頃は年に1回会えれば良い方だ。


家族のために働き続けた男は、今は認知症の妻を支えるためだけに生きている。

50年一緒に生きてきた。

最後まで一緒にいたい。


ある日、夜遅く、妻が1人で家を出ていった。


夜通し探し回り、夜が白々と明け始めた早朝、男は妻を小学校の校庭で見つけた。

運動会用テントの下、そこに置かれた古い椅子に、見覚えのあるハンカチが三つ、しっかりと結びつけられていた。

妻はまるで、運動会の開会を待つかのように、そこにちょこんと座っていた。


「おい、こんなハンカチ、一体どこから持ってきたんだよ……」


男は、安堵と切なさがないまぜになった感情で、声にならない笑いとともに涙を流した。

それは、まだ幼かった子どもたちと家族三人で運動会の場所取りをする時に、妻が毎年使っていた、あのハンカチだった。

そういえば、いつも早朝に起きて場所取りをしてくれていたのは、他でもない妻だった。このハンカチの置き場所さえ、俺は知らなかったのだと、今更ながらに気づかされた。


「帰ろうか」


男は静かにそう告げ、妻の手をそっと握った。

彼女は何も言わずに、その手を握り返した。二人は固く手を結びながら、思い出の場所を後にした。


「ねえ、あの子達、今年は徒競走、何着かしら。去年は途中で転んで可哀想だったわね」



その日の午後、男は妻と2人で市役所へ向かった。


受付番号が書かれた紙をもらい、椅子に座って順番を待った。

番号が書かれたボードが点滅した。


「少し遠くの窓口までいかないといけないみたいだ。歩けるか?」


「もちろんよ」

妻は胸を張って答えた。


なんで今、ちゃんと答えられるんだよ…。


窓口で要件を告げると、書類を2枚渡された。


「内容を確認できましたら、重要事項を読み合わせした上、サインをお願い致します」


職員は笑顔を見せながらも、事務的な口調で述べた。


30分後、手続きはおわった。


「彼女をお願いします」

とだけ言い残し、男は市役所を後にした。


男が手を振ると、妻はニコニコ笑いながら手を振り返した。


「早く帰ってきてね」



家に帰りながら息子2人に電話をした。

昼の3時に電話をするのもどうかと思ったが、今回は仕方ない、と自分に言い聞かせた。


案の定2人とも電話には出なかった。

男が2人にメールを書いていると、長男から電話がかかってきた。


「何かあったの?お母さんの体調が悪くなったの?」


息を切らしながら声を出していた。

仕事の合間にかけているので、どこか人目につかない所に移動したのだろう。


「いや、お母さんは元気だよ」


「じゃあお父さんに何かあったの?健康診断で何か見つかったとか?」


「いや、俺も何もないよ」


「じゃあ、なぜ…」


「正直に話すと、俺がもう限界だったんだ。お母さんと長く暮らしてきたが、もう最近は暮らすというより、お互いの人生をすり潰しているような感じで」


「…」


「だから施設に入ってもらうことにした。本当はお前達にも相談してからが良いと思ったが、相談しても結果は同じだと思って、さっき手続きを済ませて来た」


「…そうか。俺らが面倒見きれないから、仕方がないよな。面会もできるんだよね?」


「もちろんできる。病気じゃないしな。Web面会も出来るみたいだぞ。こっちの新しい施設は設備が進んでるから」


「Web面会か……。新しい施設って……あの、面会方法がちょっと特殊なとこ?」


「そうだよ。こっちは田舎だからな。都会と違って空きがあったんだ。そして俺もしばらくそこで暮らすことにした。家も全て処分することにしたから、何か必要なものがあったら持っていってくれ」


「え…?」


「俺はもう決めたんだ。好きにやらせてくれ」


その夜、次男からも電話がきた。

長男から話を聞いたらしい。


「俺に金を出させてくれ」と言ってきたが、断った。


「自分の金でなんとかするから、お前の金はいらないよ。面会に来てくれたら十分だ」


ーー立派な大人に成長したな。


男は家族で過ごした日々を思い出した。

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