第1章 城砦

 五名の騎士がホーステイル砦の広場ベーリーを歩いている。先頭の騎士が兜を取ると、その中から金髪碧眼の好青年が現れた。

 グラント侯爵アンドリュー。二十四歳の若き司令官である。砦内を視察し、護衛たちと天守閣キープへ戻る途中だった。


 彼が左右を見渡すと、木造の住居からは、中で寝かされている負傷兵の呻き声が外まで響き、疲労と絶望に打ちひしがれた若い騎士たちや兵士たちが、軒下で壁を背に座り込んでいる。

 砦の広場は血と汗と薬草の匂いで濁り、治療にあたる神官もわずか数名しかおらず、治癒魔法を使う人手もまるで足りていない。

 そして、いつ敵が押し寄せてもおかしくないのに、誰も声を出す気力がない。

 アンドリューは彼らにかける声も見つからず、無言のまま階段を登って行った。


 ホーステイル砦は平山城モットアンドベーリーで土塁と木造の砦であったが、石造へと移行している途中だった。

 今回の国王グラント三世の御出馬を受け、急ごしらえではあるが、天守閣だけは石造りとなっていた。しかし外構は土塁と石垣が混在しており、空堀に板塀と防御力は心許ない。


 アンドリューが砦に入ると、暗かった騎士たちの目が少し蘇り、敬礼で出迎えた。

 アンドリューはリビン王国の中興の王、ケリー・グラントの血筋であり、その出身地グラントの町を治める、国王の再従弟であった。

 国王からの信頼も篤く、頭の良さと人柄の良さから有力諸侯からも一目置かれる存在だ。


 この外征でグラント侯爵軍は、バーリー大公を除く王国家臣団では最大の一万二千人の兵で参加した。

 そんな彼の軍も蛮族の奇襲で半数が死傷または捕虜となり、もう半数は指揮系統が引き裂かれ、各小部隊指揮官に率いられて退却、または命令を無視して逃走した。

 最後までアンドリューに従い、ホーステイル砦に逃げ込んだ者はわずか七百余。うち百人ほどは戦えない負傷兵である。残りの従者などの非戦闘員が百人ほどおり、騎士が約二百人と民兵約三百人が実質の戦闘員だ。


 彼が砦に入城した時には、本来なら国王とその近衛が詰めていたはずだが、すでに退却した後で、もぬけの殻となっていた。

 おまけに食糧庫は退却時に荒らされ、わずかな食糧しか残っていなかった。

 唯一の救いは井戸が無事であったことくらいである。


 砦の被害状況を調べてきた騎士たちから、あまり嬉しくない報告を受け、アンドリューは眉間に皺を寄せながら、周りに問う。


「味方はどんな具合か?」


 アンドリューは立ち上がり、戦場側の窓へ寄る。

 沈黙の中、側近のアーヴィン子爵イアンがつぶやくように答えた。

 

「芳しくございません……」


「……だろうな」


 わかりきった答えに質問をした自分が可笑しくなり、自嘲気味に笑った。


 砦の上から戦場を見下ろすと、眼下には地獄絵図が広がっている。

 泥と血にまみれた大地。その上を、支えを失い支離滅裂に散っていく連合軍兵士たちが走り惑っていた。

 そして彼らを追いかけて捕らえ、またはとどめを刺していく蛮族ども。

 大局は決し、敵も掃討戦に移っている。


 アンドリューは拳を握った。

 王家の血を引きながら、この惨状を立て直せない。

 王国軍が退き、食糧もわずかしかない以上、この砦もそう長くは持ち堪えられない。陥ちれば王家を含めてグラント家の名は……この敗戦ですでに名声は失われているが、これ以上ないほど貶められるだろう。

 その後、社交界のパワーバランスも崩れるだろう。そうなれば、バーリー大公の専横をますます許すことになりかねない。


 そして……身重な妻のクララの悲しむ顔が目に浮かんだ。

 彼女は昨年、ルーイン侯爵家から嫁いできたばかりだ。頭が良く、新婚早々から馬が合い、すぐに身籠った。

 捕虜になって身代金を請求されるだけならまだしも、戦死すれば悲しみと不安を感じさせることになるだろう。

 そう言えば舅殿と義弟は無事に退却できたのだろうか……


(クララのためにも生きて戻らねば……だが、七百の兵で何ができるというのか)


 眼下の味方すら救うことすらできない。

 目の前の悲惨な光景が、まるで別世界を見ているような感覚に襲われた。

  




 その中で、異様な集団が静かに動いているのを、目の端で捉えた。


「……あれは一体なんだ……?」


 歩兵全員が装飾の付いた革鎧……遠目にはそのように見えるが、普通の革鎧ではない上等な鎧を身につけている。

 そして長槍ロングスピアを持ち、世間一般の歩兵が持つ小楯スモールシールドではなく、騎士が持つような大楯ラージシールドを抱えている。

 騎士だけではない、数百の兵が規則正しく並んで密集陣形をとり、負傷兵を抱えながら進む姿は、混乱に染まった戦場の異物のようだった。


 蛮族の一部が襲いかかるが、矢はことごとく盾で防がれ、逆に長槍の穂先に絡め取られ、馬上から無造作に弾き落とされていく。

 あるいは盾を構えた兵士らの隙間から弓兵が矢を射掛け、馬ごと騎手を撃ち倒している。


 あの動きは、ただの訓練された歩兵ではない。槍の角度が揃い、盾と盾の間隔が寸分違わない。

 しかも命令の伝達が異様に速い……いや、まるで全員が考える前に動いているように見える。

 そんな戦闘集団がリビン王国内にいたことすら驚きだ。


 その中心に立つ人物の指揮で、集団は整然と移動している。錯覚だとわかっていても、巨大な甲羅を引きずる生き物が戦場を横切るように見えた。

 彼らは周囲の混乱など意に介さず、そして蛮族の追撃をあしらいながら、動けずにいる負傷兵の方へ移動すると、一人また一人と回収していく。


「彼らは何をしているんだ?」


「……負傷兵の回収ですな」


「そんなことは見ればわかる。なぜ、この局面であんな事をしているんだ?」


 イアンも、その他の騎士たちも沈黙で答えるしかなかった。

 負傷した騎士を捕らえて、身代金を要求するつもりなのかと思ったが、彼らは明らかに粗末な装備の民兵でも、負傷兵と見れば手あたり次第に回収している。

 ひょっとすると、彼らは高名な傭兵団で、同じ平民の兵士を助けているだけなのかもしれない。しかし、どう見ても中央に騎乗の騎士団がいるように見える。


 やがて旗印がはっきり見えてきた。旗に描かれた家紋は深紅色の旗に金色の円、その中央に見慣れない花——紫色の花だ。


「魔術師殿。あれは何の花だ?」


 アンドリューがイアンに尋ねた。アーヴィン子爵家は王国でも数少ない魔法の使い手の一族だ。薬草学にも通じ、植物に明るい。


「おそらく……アコニット《トリカブト》ですな」


「毒花だな……変わった旗印だ。近づけば死ぬ、という意味か?」


 アンドリューの心に、戦場でありながら冷たい畏怖が走った。

 同時にある噂を思い出す。

 社交界の貴公子にして、貴族令嬢たちの噂になるほどの美貌の持ち主。浮いた話の一つもなく、男色家ではないかと噂のある独身貴族。平民の兵士にまで上等な装備で固めさせるという、軍事費を浪費する変人。戦上手でバーリー大公が目にかけており、"バーリーの犬"と揶揄される有力貴族……


「アコニット……アコニットの町……ドリス子爵か!」


 すると後ろの方で騎士の誰かが感想を漏らした。


「カイル・ドリス……言葉にするのも憚られますが、噂に違わぬ変人ぶりですね……」

 

 アンドリューは目の前で奇行——負傷兵を片っ端から助けつつ、撤退してくるという離れ技をする変人貴族に、胸の奥が密かにざわつくのを感じた。


 ドリス子爵軍は目につく負傷兵を回収し終えると、今度は砦にゆっくり後退してくる。蛮族は執拗に集団へ矢を射かけていた。

 見張りの騎士は砦の板塀の上に弓兵を並べ、援護射撃を開始した。

 流石に弓矢の射程距離が近づくと、蛮族も勝ち戦で死にたくはないのだろう。ドリス子爵軍への追撃を止め、引き返していった。


「すぐに子爵をお迎えせよ」


 アンドリューは視線を逸らさず、紫の花の旗印をじっと見つめて命じた。

 これほどの結束力と戦闘力を持つ小さな集団は、かつて見たことがなかった。


「……あの集団を味方にできれば、なんとか脱出できるかもしれん」


 胸の奥で、戦況を覆す希望の芽が、ほんの少しだけ揺れた。

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2025年12月26日 20:00
2025年12月27日 20:00
2025年12月28日 20:00

ホーステイル砦の撤退戦 林忍 @Nmesh119112

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