ホーステイル砦の撤退戦

林忍

序章 敗戦

 砦や城壁のない荒野が、戦場となっていた。

 北風が吹き荒れ、ほとんど草の生えていない地面には連合軍の旗が揺れている。だが、統制の取れた行列など、そこには存在しなかった。


「前進だ! 前に出ろ!」


 誰が誰に命じているのか、声は乱れ、矛先は右往左往する。

 装備が華美で知られるレスター伯爵家の騎士団も、機動力で知られるストック伯爵家の歩兵も、それぞれの領主に従い、個別に動くだけ。


 その隙を突くように、砂塵の中から影のような騎兵が飛び出した。


「蛮族……!」


 叫ぶより早く、矢が雨のように降り注ぐ。

 偽りの退却、待ち伏せ、そして分断包囲。

 リビン王国の諸侯連合軍は、何が起きているのか理解する間もなく、一つずつ切り崩されていく。


 中央部隊が突破されると、左右の隊列が混乱した。


「右翼を支えろ! 左翼は退け!」


 叫びは飛ぶが、届く者は少ない。指揮系統は崩壊し、秩序は砂塵に吸い込まれた。


 騎士は一人、また一人と馬から投げ出される。

 歩兵は矢の嵐に散り、斬り合いの中で命を落とす。

 撤退の合図も、誰も発せず、誰も聞かない。


 戦場は、完全なる地獄となった。


「退け……!生き延びろ!」


 ようやく聞こえた指揮官の叫びも、すぐに砂塵にかき消される。

 これ以上、統率の取れぬ兵を守ることなど、誰にもできなかった。

 身分の差など関係なく、騎士も兵士も戦場に翻弄され、命を削られていく。


 



 丘の上からバーリー公爵ウィリアムは、震える手で地図を握りしめた。

 リビン王国ではバーリー大公と呼ばれ、北の守りを長く務めた最有力の公爵家である。

 北の蛮族を討つ——それが今回の遠征の名目だった。

 発案者は他でもない、自分。娘婿である国王グラント三世を動かし、王国の諸侯に連合軍結成を命じた。


 だが、諸侯の足並みは揃わない。

 騎士団や歩兵の質も領主ごとに大きく差がある。

 派閥争い、指揮系統の混乱、軍資金の不足……問題は山積だった。


 大公は憚らず大きくため息をついた。


「全てが計算通りに進むとは思っていなかったが……」


 本来なら、国王をホーステイル砦に総司令官として座らせ、自分は元帥として戦場で手柄を立てればよかった。

 ——そのはずだった。


 敵部隊が姿を見せた時、彼らは弓で前衛を射かけてきた。

 レオポルド伯爵軍とマーリー伯爵軍が反撃のために前進すると、蛮族は後退し、再び矢を浴びせる。

 明らかな陽動だった。

 しかし両軍はライバル関係で、どちらも前に出ることをやめない。

 大公が突出しすぎるなと伝令を走らせた時、草むらの影が突然、盛り上がった。


 馬群だった。

 背には蛮族の騎兵たちが乗っている。

 彼らは、馬とともに草の陰に伏せていたのだ。


(馬を伏せさせるとは……なんという調教技術だ……)


 感嘆とも絶望ともつかぬ思いを胸に、バーリー大公は砂塵の向こうを見つめた。

 統率を失った軍勢は、つむじ風に翻弄される落ち葉のように散っていく。

 




 やがて、前線の混乱が後続に伝播し、連合軍の陣列は完全に崩壊し、各個撃破の恐怖が戦場を覆った。


「……すべてが、分断されている……」


 視界に映るのは、混乱の渦中で必死に生き残ろうとする人々。

 連合軍は、統率を失い、蛮族の計略に次々と飲み込まれていた。


 大公は控えていた弟、チェスト侯爵リチャードに静かに命じた。


「撤退準備を。足の速いものから順に撤退させよ。防御力の高いドワーフ傭兵団を最後尾に……そして国王陛下に、撤退を進言せよ」


「兄上……承知しました」


 リチャードは苦渋に満ちた表情で伝令を走らせた。


 はるか後方に、ホーステイル砦が小さく佇んでいる。

 退路は砦の後方にしかない。


 誰もが理解していた——

もはや、この戦いに勝利はない、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る