餌付けと名付け
紙とインクの匂いが充満するリビング。静まり返った一軒家の中で、ダイニングテーブルの上は、俺の情報の城となっていた。
購入した異能の専門誌や文献は机からもあふれ、床にも散乱している。傍目にはただのゴミ屋敷に見えるかもしれないが。
「うぅ……」
資料をどけた机の隅で、青いゼリー状の塊が震えている。
学校帰りに拾ってきたスライムだ。
「怖がることないよ。今、治してやるから」
そう伝えて、手に小瓶を取った。
なけなしの生活費を削って購入した、市販の低級ポーション。低級とはいえ、深い裂傷ですら数秒で塞ぐ効力がある優れた薬だ。無能力者である俺が、もしもの時のために常備していた虎の子の一本。
「まさか、自分より先に魔物に使う機会が来るなんてな」
瓶の中の琥珀色の液体を透かして見ては苦笑し、スライムの元へと近づけた。
だが、その瓶を見た瞬間、スライムの反応が劇的に変わった。
「……ッ!? や……やだ……!」
逃げようとしたのだろう。だが瀕死の体に力が入らないのか、机の上でピクリと痙攣するだけに留まる。
ただ、その青い体の表面だけが、異常な速度で波打っている。
「……薬が嫌いか? いや、そもそも薬なんて知っているのか?」
魔物がポーションの瓶を見て怯えるなんてありえない。だが、そのことを考えるのは後だ。なにせ――。
「大人しくしろ。このままじゃ死ぬぞ」
今は治療が先決だ。抵抗するスライムを片手で軽く抑え込み、瓶をひっくり返した。
「ひっ……」
か細い悲鳴と共に、琥珀色の液体がスライムへと降り注ぐ。スライムは死を覚悟したように、ぎゅっと体を縮こまらせた。
――だが、身をすくめて待っていただろう衝撃は訪れなかった。
液体が触れた場所から、傷口が泡立つように埋まっていく。ドロドロに崩壊しかけていた輪郭が、急速に再構築されていく。
数秒後には、傷一つない綺麗な球体を取り戻していた。
「……あれ?」
パチパチと、まん丸な目が驚いたように数回瞬きをする。
その様子は痛みが無くなったことに困惑しているようだった。
「……ふぅ。一か八かだったが、なんとかなったか」
安堵の息を吐き、椅子に深くもたれかかった。
なにせ使ったポーションは人間の異能で作られた人間用の薬だ。スライムに効く保証なんてない。魔界から来た魔物と話せるという千載一遇のチャンスを、自らの手で潰す可能性すらあったのだから。
だが、治ったスライムはというと、弾かれたように机の端まで転がった。部屋の隅、辞書と壁の隙間に体を押し込み、こちらの様子を伺っている。
「……ボクに、なにしたの……?」
怯えと、それ以上の混乱がない交ぜになった声。
「なにしたって、治すために薬をかけたんだよ」
「でも……薬って、ボクたちを溶かすものでしょ?」
「……は?」
魔物だから薬を知らない故の反応かと思ったが、どうやら違う。認知そのものが根本的にズレている。
治療ではなく、廃棄あるいは実験のための溶解液。こいつのいた環境では、それが薬と呼ばれていたのか?
ほんの一瞬垣間見えた重い背景。だが、怯える相手を前に、今それを追求するのは悪手だろう。
「ま、俺の持っていたこれは、そういう物騒な代物ではないってことだ。見ろよ、ちゃんと綺麗なまん丸に戻ってるだろ?」
「……」
言われてみれば、というようにスライムは自分の体をペタペタと触手で確かめた。
崩れていない、綺麗な球体。体が溶かされていないことを物理的に確認し、パニック状態だった思考がようやく落ち着きを取り戻したようだ。
だが、殺される心配が消えたからといって、すぐに信用するわけではないらしい。依然として辞書の陰に隠れたまま、様子を伺っている。
どうやって機嫌をとったものか。
広いリビングに、気まずい沈黙が流れる。
――グゥゥゥ、キュルルルル。
その沈黙を破ったのは、間の抜けた腹の虫の音だった。
俺の腹ではない。音の発生源は、壁際に縮こまっている青いゼリーだ。
「……今、腹鳴ったよな」
「……ッ、な、鳴ってない……」
図星を突かれたスライムは、ビクッと体を震わせてさらに小さく縮こまった。
「はははっ、スライムも空腹になれば腹の虫が鳴くんだな。待ってろ、今なんか用意してやる」
否定しつつも体色が赤らんでいるように見えるスライムを尻目に、俺は席を立って冷凍庫を開けた。
原理は詳しく知らないが、急激な再生にはカロリーを使うだろう。それに餌付けは古来より生物との距離を縮める最適解だ。
業務用の大袋を手に取り、皿に移して電子レンジへ。
数分後、加熱終了の合図とともに、食欲をそそるスパイスと油の香りがリビングに充満した。
「ほら、唐揚げだ」
テーブルに大皿を置く。だが、スライムは辞書の陰から動こうとしない。
漂う匂いに体の一部が波打ってはいるものの、容易には近づいてこない。
まだ警戒心の方が強いようで、「これは罠ではないか」と疑っている気配が伝わってくる。
「変なものは入ってねえよ」
証明代わりに一つ、自分の口へ放り込む。衣が砕ける音、あふれる肉汁。ジャンクなうま味が口いっぱいに広がる。
俺が苦しまないのを確認してか、スライムの警戒が少しだけ緩んだように見えた。そこで、もう一つ唐揚げをつまんで手近にあった小皿に移し、スライムの前へと滑らせてみる。
「ほら、食わなきゃ体も維持できないだろ?」
そう促すと、ようやくスライムがおずおずと触手を伸ばしてきた。
まるで爆発物を処理するかのような慎重さだ。触手先端で衣に触れ、危険がないことを確認している。
そして、意を決したように、伸びた触手が唐揚げに巻き付いた。
風を切る音と共に、小皿の上の唐揚げが消え、伸びていた触手も引っ込んだ。どうやら安全圏に引き込んでから食べるつもりらしい。
カリッ、と咀嚼音が響いた直後だった。
「……!!」
スライムから言葉にならない衝撃の気配が伝わってきた。カリッ、カリッ、と硬い衣が砕ける小気味よい音が響く。
やがて音が止むと、辞書の陰からプルプル震える青い体が半分だけ顔を出した。その目は大皿に盛られた残りの唐揚げに釘付けになっているが、机にへばりついたように動けないでいる。
もっと食べたい。だが、俺が怖い。そういう葛藤が見て取れた。
「取って食ったりしないから、出てきて食えよ」
呆れたように言うと、スライムはようやくおずおずとテーブルの中央へと寄ってきた。
そして次の唐揚げを体に取り込み、今度は逃げずにその場で夢中で食べ始めた。身体をぷるぷると震わせ、子供のように喜びながら食べるスライム。
その無邪気な様子を見ていると、自然と頬が緩んでしまった。
そういえば、自宅の食卓で誰かとご飯を食べたのはいつぶりだろうか。そんな感傷が、ふと胸をよぎった。
「……お前、名前は?」
「……?」
咀嚼を止めず、スライムが俺を見る。
「ボク? ボクは……『検体七〇二号』」
「……検体?」
やはり、実験施設のような場所からの脱走者か。
事情は気になるが、今はそれよりも呼びづらい名前が問題だ。
「却下」
「え?」
「番号で呼ぶのは趣味じゃない。そうだな……プニプニしてて丸いし」
直感をそのまま口にした。
「お前のこと、プニマルって呼ぶことにするよ」
「……プニマル? それ、ボクの名前?」
「呼びやすいし、お前の見た目そのままだろ」
「名前……プニマル……プニマル……」
スライムは口の中で反芻するように繰り返し、嬉しそうに目を細めた。
「……わかった。ボクは、プニマル」
「よろしくな、プニマル」
俺が言うと、スライム……プニマルは安心したように再び唐揚げへと意識を戻した。
「一応言っておくけど。タダで置いてやるわけじゃない」
釘を刺すように人差し指を立て、言葉を続けた。
「衣食住は保証してやる。その代わり、お前の持っている魔界の情報と異能について教えてもらう。これが交換条件だ」
そう告げた瞬間。プニマルの動きが、凍り付いたように止まった。
「……異能?」
さっきまでの食欲が嘘のように消え失せ、また青い体が小刻みに震え始める。これは何かトラウマのトリガーを引いてしまったか。
「まあ話したくなったらでいいよ。怪我が治ったとはいえまだ万全じゃないだろうし」
怯えて逃げられても困る。まあ焦らず気長に待つかと考えながら、もう一つ唐揚げを口へ運んだ。
◇
こうして、俺とプニマルの奇妙な共同生活が始まった。
最初こそ俺の一挙手一投足に怯えていたプニマルだったが、数日たつと少しずつ変化が現れ始めた。危害を加えられないことを理解したのか、その行動範囲は机の隅から部屋全体へ、そして俺のパーソナルスペースへと侵食し始めていた。
電子レンジの加熱終了音が鳴れば、俺より早くテーブルにつき、自分の分はまだかとプルプル体を震わせて待機する。苦笑しながら小皿に取り分けてやると、嬉しそうに平らげるのが日課となった。
それだけではない。ある夜、風呂から上がってリビングに戻ると、机の上が妙なことになっていた。
一冊の絵本が広げられ、その上にプニマルが鎮座しているのだ。近づいて確認すると、それは幼い頃に読み聞かせてもらった『桃太郎』だった。
なんでこんなものが、と部屋を見渡せば、隅にある押し入れの襖が半開きになっている。どうやら、奥底の段ボールから自分で引っ張り出してきたらしい。
文字など読めないはずだが、触手で器用にページをめくり、食い入るように見つめている。覗き込むと、ちょうど鬼が退治されるクライマックスの場面だった。自分と同質の存在が倒される描写だというのに、プニマルは小刻みに身体を揺らし、無邪気な興奮を放っている。
その姿は、まるで新しい玩具を与えられた子供のようだった。
その好奇心は絵本だけでは収まらなかった。テレビのリモコン操作も覚え、ニュースやバラエティを見ながら人間の世界をスポンジのように吸収していくプニマル。いつしかその青い球体は、この殺風景な家にとって、当たり前の日常の一部のような顔をして溶け込みつつあった。
そして一週間後の日曜日。
外出準備を済ませカバンを手に取ると、プニマルが転がる様に足元へと寄ってきた。
「拓真、どこ行くの? おいしいもの買いに行く?」
「病院だよ」
そう端的に伝えるとプニマルが目を見開いた。
「え、病院!?」
「ああ。とにかくお前はお留守番だ」
それだけ言って玄関に向かおうとしたが、プニマルが足にまとわりつき、駄々をこねる。
「やだ! ボクも行く!」
「ダメだ。見つかったら困るだろ? そもそも行って楽しい場所じゃねーよ」
そう諭そうとすると、プニマルが反論した。
「だって、拓真はボクのこと解剖したり痛いことしたりしないもん。他のやつらとは違う。だからボクも拓真のこともっと知りたいんだ」
まっすぐな視線で見上げるプニマル。その信頼は嬉しいが、外に出すことは危険には変わりない。どう言い含めたものかと考えていると、プニマルは液状化してカバンに飛びついた。
そして一瞬で、大きめのキーホルダーのような形に固まった。
「じゃん、これがボクの隠していた異能、擬態だよ! これで絶対にバレないでしょ」
「それはスライムの種族としての性質だろ。異能ってのは、スライムそれぞれが持つ、もっと個別の特殊能力のことだってこのまえ自分で言っただろ」
「あ……」
図星だったのか、キーホルダー状の体が気まずそうに固まる。
どうやら生物としての性質を異能の情報として差し出し、話したくない本当の異能から目を逸らそうとしていたらしい。
だが――まあ、いいか。
以前は「異能」という単語を聞くだけで怯えていたのだ。それが今では、嘘に混ぜてとはいえ、自ら口にできるまでになった。それだけでも、ずいぶんな進歩だ。
それに、この姿なら周囲にバレないという点だけは事実。
「わかった。連れてってやる。けど、変な動きはするなよ?」
「やった!」
プニマルが掛かったカバンを持ったまま、靴を履き、ドアノブに手をかけた。
「ねえ、病院行くって、拓真どこか悪いの?」
ふと、プニマルが無邪気に尋ねてきた。
「……俺じゃない。八年間、一度も目覚めない家族に会いに行くんだ」
振り返り、静まり返ったリビングを一瞥してから静かに答えた。
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