第3話 文化
夜が明けた。
古くなった蝶番が音を立てながら、病室のドアが開いた。
「この度は……残念でした」
「……はい」
「週齢からしてウイルス増殖期のピークでしたね」
医師は満足げに頷いた。
「……は?」
「いや、助かりました。ストックしていたウイルス力価が低くて困っていたのです。そのまま食べるのが昔からの習慣ですが、最近はこちらでワクチンのようなものを作ることもできるようになりましてね。そちらについては抵抗は無いですか?」
医師は机の端にあった紙束を親指でトントンと整え、話を続けた。
「自家ワクチンというやつです。海外では実際に使われているんですよ。
自分の農場のサンプルを送って、そこから専用のワクチンを作ってもらう。
日本だと国が認めてくれないので、こうして自分たちで作るしかない。少し面倒ですが、やる価値はある。ほら、県の家畜衛生情報にも記載がある」
新婦は言葉の意味を正確に理解できず、黙って彼を見た。
「……ああ、"こちらで用意すること"がご心配ですか? でも大丈夫ですよ。
今は時代が進みましたからね。こんな田舎の病院でも、ウイルスを分離し、細胞で培養し、無菌的に調整する設備は整ってます。
最初は生ワクチン、2回目は不活化ワクチンという組み合わせが良いと思います。大体3週間間隔ですかね。不活化ワクチンが安全と思われるかもしれませんが、不活化ワクチンだけでは細胞性免疫の惹起が弱いですからね。最初は生ワクチンを推奨しています」
「……何の話をしているんですか?」
「ワクチンについてですが」
彼は、まるで当然だというように微笑んだ。
「……?」
「すみません、何もご存じないのですね。
ここら一帯には昔から蔓延しているウイルスがあるんです。
今回の流産も、それが原因ですね」
「ウイルス……?」
「はい。発生場所があまりに限定的なので、商業的にワクチンが作られることはありません。
ですが、ここの出身者は何故か自然免疫を持っていましてね。
外から来た方はその免疫がない。だからこうして免疫を付与する必要があるのです」
「でも……私、この村で予防接種を受けた記憶は……」
「でしょうね。昔ながらの方法が、今も受け継がれているんです。私は予防接種派なのですが、接種そのものを嫌がる方も多くて。どこの村でも、そういう方いらっしゃいますよね?
だから、摂取という形で免疫をつける……そういう文化なんです」
言葉の使い方が、どこかおかしい。
だが医師の口調はずっと穏やかで、親切そのものだった。
「ちなみにこのウイルス、酸性環境でS1/S2タンパク質が構造変化を起こして、感染性を持つんです。
胃の中でちょうど活性化する。昔の人は、そうしたことを本能的に理解していたのでしょうね。
実験も論文もなかった時代に。……すごいですよ、ほんとに。脱帽します」
新婦は、まだ一言も理解できていないような顔をしていた。
でも、彼の目だけはどこまでも澄んで、優しかった。
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