第1話

「おい。起きろ。着いたぞ」


聞き慣れない声に、意識を引き戻された。

反射的に身を起こそうとして、視界が暗いことに気づき、心臓が跳ねる。


そうだ。

車に押し込まれ、そのまま移動したんだった。


どれくらい時間が経ったのか分からない。

考えようとするほど、頭の奥がぼんやりする。


「動けるなら立て。フラつくなら言え」


腕を掴まれる。

強くはないが、逆らえない強さだった。


靴が砂利を踏む音。

冷えた外気。

山に近い匂い。


数歩。

足元の感触が、固く変わる。


扉が開く。

空気が一段、乾いた。


次に聞こえたのは、

換気扇の低い唸りだった。


廊下を進む。

腕を引かれたまま、方向も距離も分からない。


薬品のようなアルコール臭が、濃くなる。


スリッパの音が近づいた。


「こちらへ。ゆっくりでいい」


落ち着いた声。

言葉の運びが、やけに整っている。


腕を掴んでいた男が、

手を離す気配がした。


「先生、頼みます」


「ええ。問題ないですよ」


一度、身体が止められる。


目隠しが外され、

椅子に座らされる。


光が、押し寄せる。


思わず目を細める。


白衣。

白い壁。

器具。


形より先に、

整っていることだけが分かる。


「篠原翔馬くん。名前は合ってるね」


初老の男の声。

落ち着いていて、よく通る。


「体調は。気分が悪いとかは?」


「……大丈夫、です」


「そう。それじゃ、少し見るよ」


肩に指が当たる。


「痛む?」


「……はい」


即答だった。


医者は、軽く頷く。


「だよね。投げるほう?」


答えるより先に、

紙コップが差し出される。


「それ飲んだら、喉見るから。あー、ね」


慌てて飲み干し、

言われるまま口を開ける。


「はい、次」


流れが止まらない。


聴診器。

採血。

身長と体重。


手順だけが、淡々と進む。


「身体は強い。問題は肩」


「……治るんですか」


医者は、一拍置いた。


「“戻す”ことはできるよ」


腕を取られる。


「じゃ、もう一回。ばんざい」


持ち上げられる。


――違和感が、抜ける。


もう一度。


上がる。


「ほら」


軽く笑う。


「若いからね。一年くらい、すぐだよ」


言い切って、次へ移る。


一瞬、間が空く。


「ちゃんと効いてるね。驚くほどじゃない。ここじゃ普通」


別の声が重なった。


医者は肩をすくめる。


「無理はするなよ」


その直後。


布が、また顔に戻る。

続けて、耳に重み。


ヘッドホン。


「ここから先は守秘義務だ」


声が遠ざかる。


距離も、時間も、

測れなくなる。


歩かされる。


床の感触が変わる。

上下の感覚が、曖昧になる。


一度、止まり、

また進む。


肩の軽さだけが、

遅れて実感として残っていた。


やがて、

湿気と埃の匂い。

人の気配。


座らされる。

柔らかい。


ヘッドホンが外され、

目隠しが取られる。


白い部屋。

ソファとテーブル。


向かいに、黒服の男。


無表情。

視線だけが、こちらを測る。


隣に、作業着の男。


「……黒川や。よろしくな」


「座れ」


促され、腰を下ろす。


「契約書だ。確認したらサインしてくれ」


紙束。

細かい文字。


「分からん事があったら……」


「――黒川」


短く制され、

作業着の男は口を閉じる。


「ここに来たのも、外で借金こさえたのも、

全部お前が選んだ」


淡々と続く。


「中に入ってからも同じだ。全部自己責任」


顎で示され、サインする。


腕を掴まれ、

手首に何かが嵌められる。


「金のやりとりと、位置だ」


「……それって」


一拍。


「あのなぁ、勘違いするなよ」


低い声。


「お前は、もう客じゃない」


黒川が立ち、先に歩く。


床は均一。

足音は返らない。


白い壁。

同じ景色。


天井の黒いレンズ。


進行方向だけが示されている。


空気が変わる。


金属の匂い。


前方に、開口部。


厚いシャッター。

警備員。


「腕を出せ」


無言の検査。

機械音。

端末が鳴る。


重い扉。


開く。


一歩、踏み出す。


背後で、閉まる音。

逃げ場が消える感触。


先は、湿気と埃。

人の気配が、距離を詰めてくる。


黒川が、歩調を落とす。


「わしは面倒見ることになった班長の黒川や。よろしくな」


細い道。

両脇に長屋。


天井はない。

上は、暗い空洞。


洗濯物。

箱。

私物。


生活の匂いが、剥き出しで漂う。


引き戸が開く。


「遅かったな、黒川のおっさん。新入りか?」


立ち上がった男が声を上げる。


「おう、翔馬。こいつは甲斐や。

そこで本読んどるのが三枝や」


窓際の男が、ちらりと視線を上げる。


「はじめまして。三枝です」


「樋渡は?」


甲斐が顔をしかめ、押入れを顎で示す。


襖をすっと開ける。


下段に、男が縮こまっていた。

眼を見開いたまま、前を見ている。


「……」


「ちょっと変わってるけど、樋渡やで」


黒川はそれ以上触れず、

襖を半分閉めた。


「あと安田っておっちゃんがおる。

今日は仕事や」


そう言ってから、翔馬を見る。


「今日はもう少ししたら休め。

布団は空いとるとこ使え」


頷き、荷物を壁際に置く。


部屋の空気が、

少しずつ身体に馴染んでいく。


遠くで人の声。

酒気を帯びた笑い声。

古い換気扇の回る音。


それらが混じり合い、

途切れることなく続いていた。


目を閉じても、眠りは浅い。


――この街は、まだ起きている。

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ダンジョン逃亡記 芦屋 学 @ashiya_manabu

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