第19話
「ごめん、しんじ」
「ああ、いいって」
「う。お、怒った?」
「怒ってないから、気にしなくていい」
「うん……」
ついなは珍しく恐縮してしまっているようだが、本当に怒っているわけではない。
感情がジェットコースターのように、いや、ミキサーか何かで掻き回されたかのようにグチャグチャになったが、最終的に胸中を占めているのは安堵だ。
俺が呑気にバイトばかりしてる間に寝取られていなくて本当に良かった、という安心の気持ちで胸がいっぱいだった。
なのでここはいつものように適当な話をして、ついなの気を楽にしてあげるとしよう。
「本当に怒ってないぞ。男は誰しもがケダモノになる可能性を秘めているからな」
「あっ、ユッコも言ってた。男はみんなケダモノって」
新キャラが登場したな。チカに続いてユッコか。
「そう。だからさっきの話もあながち間違いじゃない。……いや、間違いしかないんだが、強くは否定できない部分もあってだな……」
プール帰りに我慢できなくなるなんて、いかにも俺がやってしまいそうなことだ。さらに週五なんてのも実に絶妙なラインを突いてきている。必死に遠慮して我慢をしたらそのくらいになるんじゃないか、という気がしてならない。
もし本当についなと付き合っていたとしたら、そっくりそのまま同じルートを辿ってしまいそうだった。さてはチカは予知能力者なのか……? あるいはユッコが未来人だった……?
「おー。しんじもケダモノ?」
「ん? うん、いや、まあ。そういう因子が無きにしも非ずといった感じで……」
「おおー……」
ついなは興味津々といった様子だが、ケダモノトークはここまでにしよう。ついなが落ち込んでいるのを何とかできたのだから、もう話を逸らさなくてもいい。
「ともかくそれで口裏を合わせておこうってことだな」
「うん。しんじがチカ達と話すことがあったら困るから」
「わかった。衝撃的すぎて全部完璧に覚えたからバッチリだ」
一応それぞれのディティールも軽く詰めてみたが、そこまでツッコまれることはまず無いだろう。とりあえずこれで夏のエピソードは何とかなったはずだ。
「あっ。距離感も変わると思う」
「距離感?」
「うん。わたしとしんじの距離感」
「……ああ。そりゃ週五でってことになると、初々しさとか余所余所しさはもう残ってないか」
毎日のようにイチャコラしてたら、パーソナルスペース的なものは破壊されてもおかしくないか。
俺自身は体験したことが無いからよくわからないが、いわゆるバカップル的な状態に近くなってしまうのだろう。
「そういうこと」
「……いや、でもそんな所に気付く奴がいるか?」
「うーん。チカは目ざとい」
一体何者なんだ、チカめ……。チカの顔も一目拝んでおきたくなってきた。
しかしそんなチカのせいでかなり難しい状況に追い込まれてしまった。
「うーむ……」
「しんじ、嫌?」
「嫌というより、難しくないか? 手を握ったことも無いのに、そんな感じの距離感になるのはハードルが高いような」
「うーん……。ん」
ついながテーブルの向こうから手を差し出してきた。なんだ? ひょっとして手を握れということか?
拒む理由も無いので、引っ込められる前に手を握る。これは一般的に握手と呼ばれる行為だが、手を握っていることには変わりない。
しかしこれは……小さくて、柔らかい手だ。少しほっそりしていて、少しだけ冷たい。うーむ、これがついなの手……。
「しんじ?」
「あ、ああ。悪い」
思わずしっかりにぎにぎしてしまった。慌てて手を離す。
「これで大丈夫?」
「ん、まあ、そうだな。うん、多分」
キスをしたことがないから、キスをしたカップルの距離感にはなれない。そう言ったらどうなるのかと考えてしまった。
まったく、恐ろしい女だ。あの手この手で俺の心を掻き乱してくる。
しかし俺のメンタルがズタボロになったのはともかく、これで話は済んだということだな。ひとまずは残ってるナポリタンを食べよう。……うわ、めっちゃ辛い。なんだこれ。マスターもいよいよ耄碌してきたか。
「そういや、でっち上げのエピソードはともかくとして、夏休みの間はどうしてたんだ?」
「夏休みはずっと家にいた。外は暑い」
「おお、わかる」
そりゃそうだよな。バイトより帰宅の方が大変だったんだ。普通はずっと家にいることになるか。
ついなはあまり活発に外を出歩くタイプには見えないし、肌は相変わらず白いままだ。本当にずっと家に篭っていたんだろう。
「しんじもずっと家?」
「俺は最初から最後までひたすらバイトよ。それ以外はずっと家」
「あっ、そういえば言ってた。どうだったの?」
「ん? そりゃもう、次から次へやってくる仕事をシュバババと捌く獅子奮迅の活躍でだな、上からの覚えも目出度く、職場では一目置かれる存在として……」
「おー。どこでやってたの?」
「倉庫」
「え?」
「倉庫」
そうして延々と夏休みの間のことを話し続けていると、そろそろ酒を出す時間だから制服の子は帰んなさいとマスターに追い出されてしまった。冷房がしっかり効いているものだから、ついつい長居してしまったようだ。結局六時間前後もいたことになるのか。
辺りはまだ明るいが、そろそろ暗くなり始めそうな雰囲気がある。しかしそんな時間でも、店を出るとすぐにむわっとした熱気に包み込まれてしまった。
「……ついな、距離感の話。やっぱしばらく無理そうだ」
「え? でも、手……」
ついなが俺の手を握ってきた。ついなの手は少しひんやりしていたが、すぐに互いの熱でじっとりしてくる。
「その、暑いから……。秋からってことで……」
「……うん。わたしたちにはまだ早かった」
今はちょっと時期が悪いので、一旦先送りすることになった。
こんな気温でベタベタくっついていたら、本当に汗でベタベタになってしまう。
「じゃあばいばい。また明日」
「おー。またな」
自転車に乗って去っていくついなの後ろ姿をぼんやり見送る。
今回はでっち上げのホラ話だったから良かったものの、同じことが本当に起こっていた可能性も当然あった。
俺はどうやら、完全に油断していたらしい。男避けに俺と付き合ってるフリをするぐらいだから、他の男に先を越されるなどということを考えもしなかった。
偽の彼氏彼女なんて、ラブコメ的にはゴールが約束された王道ルートだから、特に何もしなくても自然と本当に付き合うことになる。そんな風に考えていた。
「さすがに考えが甘すぎたな」
思えばラブコメの主人公達も、皆が何かしら大変そうにしているものだ。ダラダラ過ごしてたら勝手に可愛い彼女をゲット、なんて作品は滅多に無いだろう。
久しぶりに会って話をして思ったが、やはり俺とついなは相性が良い。……まあそれはあくまでも俺目線の一方的なもので、向こうがどう思っているのかはわからない。
だが、俺としては気が合って話が弾むし、お互い黙っていても気まずくならない。独特の空気感やテンポも心地よく感じるし、話をしていて気付けば何時間も経っていた、なんてこともザラだ。そして、そんなことは今まで生きてきた中で、ついなと話をしているときにしかなかった。
「……二学期中に何とかしてみるか」
何とかできる自信があるわけではない。
だが、のんびり構えていたらとんでもないことになるという例を、この上なく酷い形で叩きこまれてしまった以上、座して待つことはしたくなかった。
何かの物語のように恋人のフリを続けていれば、いつか勝手に本当の恋人になれる。そんな馬鹿な妄想はもうやめて、自分で掴み取りにいくとしよう。
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