第2話
バイクのエンジン音が、湿った空気の中に溶けていく。
宮本は慣れた道を走りながら、あの封筒のことを考えていた。ドブ川端。確かにドブ川という川はある。正式名称は別にあるはずだが、地元の人間は皆そう呼んでいる。生活排水が流れ込む、幅三メートルほどの細い川だ。
川沿いには古い家が並んでいる。ただ、「ドブ川端」という地名は存在しない。少なくとも、宮本の知る限りでは。
最初の配達先に着いた。田中さんの家だ。インターホンを押すと、すぐに奥さんが出てきた。
「あら、宮本さん。いつもご苦労様」
「おはようございます。書留です」
印鑑をもらいながら、宮本は何気なく尋ねた。
「田中さん、ドブ川端という地名、ご存知ですか」
奥さんは首を傾げた。
「ドブ川端? 聞いたことないわねえ。川沿いのこと?」
「ええ、まあ」
「あのあたりは昔から何もないでしょう。廃屋ばっかりで」
そう言って、奥さんは少し声を低くした。
「あそこ、気味悪いのよね。再開発で取り壊すって話、何年も前からあるのに全然進まないの」
「何か理由があるんですか」
奥さんは肩をすくめた。
「さあ。でも昔、何かあったって話は聞いたことがある。戦後すぐくらいの話よ。川沿いに住んでた人が何人か続けて亡くなって、それから誰も住まなくなったって」
「続けて亡くなった?」
「病気だったか事故だったか、詳しくは知らないわ。うちの姑が昔そんなことを言ってたけど、もう亡くなっちゃったし」
宮本は礼を言って、次の配達先に向かった。
配達を終えて局に戻ったのは、午後一時過ぎだった。
宮本は鞄からあの封筒を取り出し、事務室のパソコンに向かった。住所検索をかけてみる。「〇〇市△△町 ドブ川端」。該当なし。予想通りだった。
次に、過去の配達記録を調べてみた。不着郵便のデータベースがある。同じ宛先で返送された郵便物がないか。
検索結果が表示された。
宮本は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
五年前。同じ宛先。不着で返送。
八年前。同じ宛先。不着で返送。
十二年前。同じ宛先。不着で返送。
記録は二十年以上前まで遡っていた。数年おきに、同じ宛先への郵便物が届いている。そして全て、届け先不明で返送されている。
差出人は全て空白だった。
「何見てんの」
背後から声をかけられ、宮本は思わず画面を閉じた。振り返ると、同僚の木村が立っていた。
「いや、ちょっと変な郵便物があって」
「変?」
「存在しない住所宛てのやつ」
木村は興味なさそうに肩をすくめた。
「返送すりゃいいじゃん」
「まあ、そうなんだけど」
木村は既に自分のデスクに向かっていた。宮本は封筒を手に取り、もう一度宛名を見た。
宛名不明様。
届けてほしいのだ、と宮本は思った。誰かが、誰かに届けてほしくて、この郵便物を出している。何度返送されても、また出している。
昼休みの残り時間を使って、宮本は別のことを調べ始めた。退職者名簿。十二年前にこの区域を担当していた職員は誰か。
名前が出てきた。田所正一。現在は退職。
連絡先は残っていなかったが、年賀状のやり取りをしている職員がいるかもしれない。宮本は総務の棚を漁り、古い住所録を見つけた。田所正一。市内に住所があった。
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