届かない届け先

@hashito_

第1話

梅雨に入って二週間が経つ。

宮本祐介は毎朝五時半に起き、六時十五分の電車に乗り、七時前には局に着く。三十四歳。配達歴は八年になる。この生活がもう八年も続いているのかと思うと、不思議な気持ちになることがある。

局の裏口から入ると、仕分け室には既に蛍光灯が点いていた。青白い光が、積み上げられた郵便物の山を照らしている。夜勤明けの職員が二人、無言で作業を続けていた。宮本は軽く会釈をして、自分のロッカーに向かった。

ロッカーを開けると、制服の襟元からかすかに防虫剤の匂いがした。妻が入れ替えたのだろう。そういう細かいことに気がつく人だった。宮本は制服に袖を通しながら、今日の天気予報を思い出そうとした。曇り、午後から雨。ここのところずっとそんな予報ばかりだ。

郵便局員になりたいと思ったのは、十二歳の時だった。

父が死んだ年だ。心筋梗塞だった。朝、普通に出勤して、昼過ぎに会社で倒れて、夕方には死んでいた。宮本は学校から帰ってきて、母から聞かされた。実感が湧かなかった。昨日まで普通に話していた人間が、突然いなくなる。そういうことがあるのだと、十二歳の宮本には理解できなかった。

葬式の後、父の会社から段ボール箱が届いた。父のデスクにあった私物だという。母と一緒に開けると、いくつかの文房具と、一通の封筒が入っていた。

封筒には、宮本の名前が書かれていた。父の字だった。

中には手紙が入っていた。宮本の十三歳の誕生日に渡すつもりだったらしい。誕生日は三ヶ月後だった。父は、届けられなかった。

手紙には、大したことは書かれていなかった。勉強を頑張れとか、母さんを大事にしろとか、そういうありふれたことだ。でも最後に、こう書いてあった。

「届けたいものがあるなら、届けられるうちに届けろ。届けられなくなってからでは遅い」

父は、届けられなかったのだ。自分の手で、息子に届けることができなかった。誰かがその手紙を見つけて、届けてくれなければ、宮本は父の言葉を受け取ることができなかった。

届ける仕事がしたい、と思った。届けたい人がいて、届けてほしい人がいる。その間を繋ぐ仕事。届けられなくなる前に届ける仕事。

単純な動機だった。子供じみていると言われれば、そうかもしれない。でも八年経った今でも、宮本はその気持ちを忘れていなかった。届けるべきものは届ける。届け先があるなら、届ける。それが自分の仕事だ。

仕分け室に戻ると、自分の担当区域の郵便物が既にまとめられていた。第三区、通称「川向こう」。古い住宅街と、再開発から取り残された一角を含む地域だ。配達件数は多くないが、道が入り組んでいて時間がかかる。

宮本は郵便物を手に取り、一通ずつ確認を始めた。宛先、郵便番号、届け先の名前。指先が自動的に動く。八年もやっていると、体が勝手に覚えている。

田中様、山田様、佐藤様。見慣れた名前が続く。

手が止まった。

一通の封筒を、宮本は二度見した。

宛先は「〇〇市△△町 ドブ川端三番地 宛名不明様」。

宛名不明様。そんな宛名があるものか。しかも「ドブ川端」という地名に、宮本は覚えがなかった。八年この区域を担当していて、一度も聞いたことがない。

封筒は茶色い事務封筒で、差出人の欄は空白だった。消印は三日前。県内の別の局から転送されてきたらしい。

宮本は封筒を裏返したり、光に透かしたりしてみた。中身は薄い紙が一枚入っているようだった。届け先不明で返送すべきか、それとも調べてみるべきか。

届けたい人がいる。届けてほしい人がいる。

「宮本さん、出発時間ですよ」

後輩の声で我に返った。時計を見ると、七時四十五分。いつもの出発時間だ。

宮本はその封筒を、他の郵便物と一緒に鞄に入れた。

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