第3話

その夜、宮本は田所の家を訪ねた。

住宅街の奥まった場所にある、古い一軒家だった。庭には手入れされた植木があり、玄関先には郵便受けが設置されていた。現役時代の癖だろうか、郵便受けは綺麗に磨かれていた。

インターホンを押すと、しばらくして玄関の明かりが点いた。

ドアを開けたのは、白髪の痩せた男だった。六十代後半か七十代前半。背筋はまだしっかりしている。

「どちら様で」

「〇〇郵便局の宮本と申します。突然すみません」

田所は宮本の顔をじっと見た。値踏みするような目だった。

「……何の用だ」

「少しお聞きしたいことがありまして。ドブ川端という場所について」

田所の表情が変わった。ほんの一瞬だったが、宮本は見逃さなかった。何かを思い出したような、あるいは思い出したくないものを思い出してしまったような顔だった。

「上がるか」

田所は短くそう言って、家の中に入っていった。

居間に通された。畳の部屋で、壁には古い時計がかかっていた。田所は座布団を出し、お茶を淹れてきた。

「あんた、第三区の担当か」

「はい。八年になります」

「八年」

田所は湯呑みを両手で包むようにして持った。

「俺がいた頃は、第三区は誰もやりたがらなかった」

「なぜですか」

「道が悪い。家が少ない。効率が悪い」

それだけではないだろう、と宮本は思った。田所の目が、何かを避けるように泳いでいる。

「田所さん。ドブ川端三番地という住所宛ての郵便物を見つけました」

田所の手が、わずかに震えた。

「返送しろ」

「記録を調べました。同じ宛先への郵便物が、何年もの間、繰り返し届いています。全て返送されています」

「だから返送しろと言っている」

「届けようとした人は、いなかったんですか」

田所は答えなかった。湯呑みを置き、窓の外を見た。外は暗かった。雨が降り始めていた。

「一人、いた」

長い沈黙の後、田所はそう言った。

「俺の後輩だ。真面目なやつでな。届け先がないなら調べる、届けられないなら届けられるようにする。そういう男だった。あんたと似てる」

宮本は黙って聞いていた。

「あいつも調べたんだ。ドブ川端のことを。古い住民に聞いて回って、役所の記録を漁って」

「何か分かったんですか」

田所は長い息を吐いた。

「戦後すぐの話だ。あの辺りには引き揚げ者が何人か住み着いた。満州から引き揚げてきた連中だ。行く当てもなくて、川沿いの空き地にバラックを建てて住んだ」

「引き揚げ者……」

「その中に、一人の女がいた。子供を連れていたらしい。旦那は満州で死んだとか、はぐれたとか、よく分からん。とにかく女は子供と二人で暮らしていた」

田所は窓の外を見たまま続けた。

「女は手紙を待っていたそうだ。旦那からの手紙を。死んだと聞いても信じなかった。生きている、必ず手紙をよこす、そう言って毎日郵便を待っていた」

宮本の背筋が冷たくなった。

「子供が先に死んだ。病気だったらしい。それでも女は手紙を待ち続けた。一人で、あのバラックで、毎日毎日」

「それで……」

「女もそのうち死んだ。餓死か、病死か、分からん。死んでからしばらく誰も気づかなかったそうだ。見つけた時には、郵便受けの前で倒れていたと」

田所は振り返った。

「あの郵便物は、あの女宛てなんだ。誰が出しているのかは知らん。死んだ旦那の霊か、女自身の執念か、それとも全然別の何かか。だが届け先はあの女だ。届くはずのない手紙を、今でも待っている」

宮本は息を呑んだ。

「俺の後輩は届けに行った」

田所の声は低かった。

「届け先があった。受け取ってもらえた、と言っていた。届けた翌日はすっきりした顔をしていたよ。長年届けられなかったものを届けられた、これで成仏してくれる、そう言っていた」

「でも」

「でも、また届いたんだ」

田所は宮本の目を見た。

「届けたはずなのに、また届いた。何度届けても、また届く。届けても届けても、あの女は満足しない。届けたいものを届けてもらっても、届いてほしいものが届かないから」

宮本は黙っていた。

「あいつは結局、辞めた。届けたはずのものが届いていない。届け先があったはずなのにない。自分が何を見たのか分からなくなった、と言っていた」

田所は立ち上がり、窓を閉めた。雨音が少し遠くなった。

「最後に会った時、あいつは言っていた。『届けるたびに、何かを持っていかれる』と」

「何を、ですか」

「分からん。だが、あいつの目はおかしかった。何かを見ているようで、何も見ていないような目だった」

田所は宮本に向き直った。

「宮本さん。届けるな。あれは届けるべきじゃない。届けたら、あんたもあの女の郵便配達になる。届いてほしいものが届くまで、永遠に届け続けることになる」

「今、その後輩の方は」

「知らん。連絡も取っていない」

宮本は礼を言って、田所の家を出た。雨は本降りになっていた。傘を差しながら歩いていると、背後で玄関の明かりが消えた。

届けたいものを届けても、届いてほしいものは届かない。

その言葉が、頭から離れなかった。

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