第3話 高難度ダンジョン

 東群第七ダンジョンの第五十階層。

 ここから先は、Aランク探索者でも慎重になる領域だった。


 空気が、重い。

 湿度ではない。圧だ。


 久瀬アラタは足を止め、周囲を見渡した。

 壁面には深く抉れた痕が残っている。爪か、牙か――どちらにせよ、人のものではない。


「……いるな」


 気配は一つ。

 だが、濃い。


 アラタは腰のホルダーから短剣を抜いた。

 軽量で、刃渡りも短い。勇者時代なら、選ばなかった武器だ。


 だが、今はこれでいい。


 床を踏みしめた瞬間、空気が裂けた。


 影が、跳ぶ。


 狼に似た魔物だった。だが、体格が違う。肩までの高さがあり、全身を覆う毛皮は黒く硬い。

 ――ダークファング。


 高難度階層に出現する、中型上位魔物。

 集団で狩るのが基本で、単独討伐は推奨されていない。


 だが、今回は一体。


 アラタは前に出ない。

 後ろにも下がらない。


 魔物が距離を詰める。

 速い。


 普通の探索者なら、防御か回避を選ぶ距離だ。


 だが――。


 アラタは、半歩だけ踏み込んだ。


 噛みつこうと開いた顎の内側。

 そこに、短剣を突き立てる。


 骨の感触。

 刃が、脳に届く。


 ダークファングは、声も上げずに崩れ落ちた。


「……やっぱり、反応が遅い」


 独り言だった。

 この世界の魔物は、強い。だが、どこか決定的に違う。


 殺意が、薄い。


 異世界で相手にしていた敵は、違った。

 生きるために、殺すために、全力だった。


 それに比べれば――。


「……油断するな」


 アラタは自分に言い聞かせ、素材を回収した。



 第五十二階層に入ったところで、異変が起きた。


 人の声。


 複数だ。


 アラタは物陰に身を寄せ、様子をうかがう。

 そこには、四人組の探索者パーティーがいた。


「くそ……数が多すぎる」

「回復、追いつかない!」


 魔物は三体。

 ダークファングが、二。

 そして――。


「……あれは」


 大型個体。

 通常より一回り大きく、魔力の濃度が違う。


 ――変異種。


 ダンジョン内で稀に発生する強化個体。

 遭遇率は低いが、戦力差は大きい。


 パーティーは押されていた。

 連携は取れているが、火力が足りない。


 撤退判断が遅い。


 アラタは舌打ちしそうになり、やめた。


 ――関わるな。


 ソロ探索者の鉄則だ。

 他人の戦闘に介入すれば、責任が生じる。


 だが。


 魔物の一体が、大きく跳躍した。

 狙いは、後衛の女性探索者。


「――っ!」


 悲鳴。


 その瞬間、アラタは動いていた。



 距離を詰める。

 剣を抜く時間はない。


 アラタは短剣を投げた。

 一直線に、魔物の眼を貫く。


 着地と同時に、懐へ。


 変異種のダークファングが振り向くより早く、首の付け根を断つ。


 ――二秒。


 戦闘は、終わった。


 残った魔物は、すでに逃走を始めている。

 追う必要はない。


 パーティーの四人は、呆然と立ち尽くしていた。


「……今の」

「ソロ……?」


 アラタは短く息を吐き、振り返る。


「撤退した方がいい。この先は、あなたたちには危険だ」

「ま、待ってください!」


 リーダーらしき男性が声を上げる。


「助けていただいて……」

「礼は不要です」


 即答だった。


 感謝も、称賛も、いらない。

 必要なのは、生きて帰ることだけだ。


 アラタは踵を返し、その場を離れた。



 しばらく進んだ後、アラタは足を止めた。


 心拍が、わずかに速い。


「……出過ぎたな」


 勇者時代の癖だ。

 目の前で死にかけている者を、放っておけない。


 だが、この世界では――。


「……違う」


 彼は拳を握った。


 今は、勇者じゃない。

 ただの探索者だ。


 そして、兄だ。


 命を賭ける理由は、もう一つしかない。



 ダンジョンを出たのは、夜だった。

 報告所では、少しした騒ぎが起きていた。


「第五十二階層で、変異種が討伐された?」

「ソロで?」


 職員たちの声が聞こえる。


 アラタは視線を合わせず、手続きを済ませた。


 だが。


「久瀬さん」


 柊カナエの声だった。


 振り向くと、彼女は真剣な表情をしている。


「……今日の件、報告が上がっています」

「そうですか」


 淡々と答えるアラタに、柊は一歩近づいた。


「あなたは、何者なんですか」


 一瞬、時間が止まったように感じた。


 だが、アラタは答えない。


「ただの、探索者です」

「……それにしては、強すぎる」


 アラタは、静かに言った。


「強さに、理由はいりません」

「生き残れれば、それでいい」


 柊は、それ以上追及しなかった。

 だが、彼女の目は、確かに何かを見ていた。



 家に帰ると、ミオが起きて待っていた。


「遅かったね」

「ごめん」


 それだけで、胸が締めつけられる。


「無事でよかった」


 その言葉に、アラタは小さくうなずいた。


 ――それでいい。


 世界一は、まだ遠い。

 だが、確実に近づいている。


 その道の先に、何が待っていようとも。



 

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