第4話 それでも、行くの?

 その日は、夕飯が冷めていた。


 テーブルの上には、味噌汁と焼き魚、白いご飯。

 どれもラップがかけられたまま、手をつけられていない。


「……遅い」


 ミオは壁の時計を見て、小さく息を吐いた。

 午後十時半。


 連絡は来ていない。

 それが、いつものことだとしても――胸の奥がざわつく。


 スマートフォンを手に取って、また置く。

 メッセージを送っても、すぐに返事が来るとは限らない。


 それでも、送らずにはいられなかった。


『まだ?』


 短い一文。

 それ以上は、打てなかった。



 玄関の鍵が回ったのは、それから十五分後だった。


「……おかえり」


 思ったよりも強い声が出てしまい、ミオは少し驚いた。


「ただいま」


 アラタはいつも通りの顔をしていた。

 疲れてはいるが、怪我は見えない。


 それだけで、ほっとする。

 なのに。


「……遅かったね」

「少し、長引いた」


 その答えに、ミオの胸のざわつきが消えなかった。


「ダンジョン?」

「そう」


 短い。

 いつも通りのやり取り。


 けれど、今日はそれで終われなかった。


「……ねえ」


 ミオは、アラタが靴を脱ぐのを待たずに言った。


「今日、ニュース見た」

「何の」


「第五十二階層で、変異種が出たって」


 アラタの動きが、一瞬だけ止まった。


 それを、ミオは見逃さなかった。


「関係、ある?」

「……偶然だ」


 嘘だ、と直感した。


 ミオは唇を噛みしめる。


「最近、危ないところばっかり行ってるでしょ」

「ランクを上げるには、必要だ」


 淡々とした声。

 理屈としては、正しい。


 だからこそ――。


「ねえ、なんでそんなに急ぐの?」


 ミオの声が、少し震えた。


「前は、ここまでじゃなかった」

「……そうか?」


「そうだよ!」


 思わず、声が大きくなる。


 ミオは自分の手が震えていることに気づき、ぎゅっと握りしめた。


「最近、帰りが遅い」

「怪我、隠してるでしょ」

「寝てるとき、うなされてる」


 一つ一つは、小さなことだ。

 でも、積み重なっていた。


「……私ね」


 ミオは、アラタをまっすぐ見た。


「お兄ちゃんが世界一にならなくてもいい」


 その言葉に、アラタの目がわずかに見開かれる。


「そんなの、どうでもいい」

「ただ……」


 声が、掠れた。


「生きて帰ってきてほしいだけ」



 沈黙が落ちた。


 アラタは、何も言わない。

 ミオは、それが一番つらかった。


「私が言える立場じゃないのは、わかってる」

「でも……」


 言葉が、続かない。


 怖いのだ。

 ある日突然、帰ってこなくなることが。


 テレビの向こうの話じゃない。

 探索者の死亡ニュースは、日常になっている。


「……ミオ」


 アラタが、静かに口を開いた。


「俺は、死なない」

「そんな保証、どこにもない!」


 ミオは、思わず叫んでいた。


「誰だって、そう思ってる」

「強い人だって、死んでる!」


 涙がにじむ。


「私……一人になるの、嫌だ」


 その言葉は、ほとんど祈りだった。



 アラタは、初めて言葉に詰まった。


 異世界で、仲間を失った。

 数えきれないほど。


 だが、目の前で泣く誰かを守るという状況は、あまりにも違った。


「……俺は」


 何を言えばいい。


 世界一を目指す理由。

 力を求める理由。


 それは、全部――ミオのためだった。


 だが、それを言えば、彼女はもっと苦しむ。


「……すまない」


 それしか、言えなかった。


 ミオは首を振る。


「謝ってほしいんじゃない」

「約束してほしいの」


 アラタは、視線を落とした。


「……約束は、できない」


 正直な答えだった。


 危険な場所へ行かない。

 無理をしない。


 そんな約束は、守れない。


「……そっか」


 ミオは、小さく笑った。

 それは、諦めの混じった笑顔だった。


「でもね」


 涙を拭って、続ける。


「無事でいようとする努力は、して」

「それだけでいい」


 アラタは、ゆっくりとうなずいた。


「……それなら」


 約束できる。


「必ず、帰る」



 その夜、ミオは先に部屋に戻った。

 アラタは一人、リビングに残る。


 テーブルの上の夕飯は、すっかり冷めている。


 ――守るとは、何だ。


 強くなることか。

 危険に身を投じることか。


 それとも――。


 アラタは、深く息を吐いた。


 勇者だった頃、守る対象は世界だった。

 今は、たった一人だ。


 それが、こんなにも重いとは思わなかった。


 窓の外で、夜風が街を撫でる。


 ――それでも、行く。


 だが、帰る。


 その二つを、同時に叶える道を探す。


 久瀬アラタは、初めてそう強く誓った。




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