第4話 それでも、行くの?
その日は、夕飯が冷めていた。
テーブルの上には、味噌汁と焼き魚、白いご飯。
どれもラップがかけられたまま、手をつけられていない。
「……遅い」
ミオは壁の時計を見て、小さく息を吐いた。
午後十時半。
連絡は来ていない。
それが、いつものことだとしても――胸の奥がざわつく。
スマートフォンを手に取って、また置く。
メッセージを送っても、すぐに返事が来るとは限らない。
それでも、送らずにはいられなかった。
『まだ?』
短い一文。
それ以上は、打てなかった。
◇
玄関の鍵が回ったのは、それから十五分後だった。
「……おかえり」
思ったよりも強い声が出てしまい、ミオは少し驚いた。
「ただいま」
アラタはいつも通りの顔をしていた。
疲れてはいるが、怪我は見えない。
それだけで、ほっとする。
なのに。
「……遅かったね」
「少し、長引いた」
その答えに、ミオの胸のざわつきが消えなかった。
「ダンジョン?」
「そう」
短い。
いつも通りのやり取り。
けれど、今日はそれで終われなかった。
「……ねえ」
ミオは、アラタが靴を脱ぐのを待たずに言った。
「今日、ニュース見た」
「何の」
「第五十二階層で、変異種が出たって」
アラタの動きが、一瞬だけ止まった。
それを、ミオは見逃さなかった。
「関係、ある?」
「……偶然だ」
嘘だ、と直感した。
ミオは唇を噛みしめる。
「最近、危ないところばっかり行ってるでしょ」
「ランクを上げるには、必要だ」
淡々とした声。
理屈としては、正しい。
だからこそ――。
「ねえ、なんでそんなに急ぐの?」
ミオの声が、少し震えた。
「前は、ここまでじゃなかった」
「……そうか?」
「そうだよ!」
思わず、声が大きくなる。
ミオは自分の手が震えていることに気づき、ぎゅっと握りしめた。
「最近、帰りが遅い」
「怪我、隠してるでしょ」
「寝てるとき、うなされてる」
一つ一つは、小さなことだ。
でも、積み重なっていた。
「……私ね」
ミオは、アラタをまっすぐ見た。
「お兄ちゃんが世界一にならなくてもいい」
その言葉に、アラタの目がわずかに見開かれる。
「そんなの、どうでもいい」
「ただ……」
声が、掠れた。
「生きて帰ってきてほしいだけ」
◇
沈黙が落ちた。
アラタは、何も言わない。
ミオは、それが一番つらかった。
「私が言える立場じゃないのは、わかってる」
「でも……」
言葉が、続かない。
怖いのだ。
ある日突然、帰ってこなくなることが。
テレビの向こうの話じゃない。
探索者の死亡ニュースは、日常になっている。
「……ミオ」
アラタが、静かに口を開いた。
「俺は、死なない」
「そんな保証、どこにもない!」
ミオは、思わず叫んでいた。
「誰だって、そう思ってる」
「強い人だって、死んでる!」
涙がにじむ。
「私……一人になるの、嫌だ」
その言葉は、ほとんど祈りだった。
◇
アラタは、初めて言葉に詰まった。
異世界で、仲間を失った。
数えきれないほど。
だが、目の前で泣く誰かを守るという状況は、あまりにも違った。
「……俺は」
何を言えばいい。
世界一を目指す理由。
力を求める理由。
それは、全部――ミオのためだった。
だが、それを言えば、彼女はもっと苦しむ。
「……すまない」
それしか、言えなかった。
ミオは首を振る。
「謝ってほしいんじゃない」
「約束してほしいの」
アラタは、視線を落とした。
「……約束は、できない」
正直な答えだった。
危険な場所へ行かない。
無理をしない。
そんな約束は、守れない。
「……そっか」
ミオは、小さく笑った。
それは、諦めの混じった笑顔だった。
「でもね」
涙を拭って、続ける。
「無事でいようとする努力は、して」
「それだけでいい」
アラタは、ゆっくりとうなずいた。
「……それなら」
約束できる。
「必ず、帰る」
◇
その夜、ミオは先に部屋に戻った。
アラタは一人、リビングに残る。
テーブルの上の夕飯は、すっかり冷めている。
――守るとは、何だ。
強くなることか。
危険に身を投じることか。
それとも――。
アラタは、深く息を吐いた。
勇者だった頃、守る対象は世界だった。
今は、たった一人だ。
それが、こんなにも重いとは思わなかった。
窓の外で、夜風が街を撫でる。
――それでも、行く。
だが、帰る。
その二つを、同時に叶える道を探す。
久瀬アラタは、初めてそう強く誓った。
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