第6話 それでも、癒す

 夜明け前の王都は、静かだった。


 人の声も、馬車の音もない。ただ、遠くで鐘楼の鐘が低く鳴り、冷たい空気が肺にしみる。


 セラは、治療所の裏口に立っていた。


 木の扉に手をかけたまま、しばらく動けずにいる。


 ――やめる。


 その言葉が、何度も頭をよぎった。


 癒さなければ、争いは起きない。

 癒さなければ、妬まれることも、責められることもない。


 神殿の言う通り、秩序に従えばいい。


 それは、とても“楽”な選択だった。


 「……でも」


 小さく声が漏れる。


 扉の向こうで、咳き込む音がした。


 誰かが、そこにいる。


 セラは、ゆっくりと扉を開けた。


 中にいたのは、痩せた老婆だった。毛布にくるまり、浅い呼吸を繰り返している。


 「朝まで……持たないかもしれないって」


 付き添いの女性が、涙をこらえながら言った。


 その言葉で、迷いは消えた。


 セラは、老婆の手を取った。


 冷たい。細い。命が、消えかけている温度。


 「大丈夫ですよ」


 いつもの言葉。


 だが、今はそれが、自分自身への誓いでもあった。


 光が、静かに広がる。


 癒しは、奇跡ではない。


 セラにとって、それは“選び続ける行為”だった。


 しばらくして、老婆の呼吸が整う。


 付き添いの女性が、声を殺して泣いた。


 「……ありがとうございます」


 セラは首を振る。


 「生きていてほしかっただけです」


 治療所を出ると、外にレインが立っていた。


 「止めないのか?」


 問いかけは、静かだった。


 「……止められません」


 セラは、正直に答えた。


 「私は、癒す力を持ってしまった。でも、それ以上に……苦しんでいる人を見て、何もしない自分には、なれません」


 レインは、少しだけ目を伏せた。


 「なら、進むしかないな」


 「はい」


 短い返事だったが、そこには迷いがなかった。


 その日から、セラの癒しは変わった。


 無差別ではない。

 だが、権力にも、命令にも、従わない。


 必要とする場所へ、自分の足で向かう。


 神殿の壁の外へ。


 王都の外縁、貧民街、そして街道へ。


 噂は、形を変えて広がっていく。


 ――聖女は、神殿を出た。

 ――だが、癒しを捨てたわけではない。


 それは、秩序にとって最も厄介な存在だった。


 セラは知らない。


 この選択が、やがて“世界を変える癒し”と呼ばれることを。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る