冬のオノマトペ
富士の頂から吹き下ろす風は、もはや空気というよりは、鋭利な刃物の連なりのようだった。
「ピリッ、ピリピリッ……」
肌を刺す冷気が、アルマーニの細かな繊維の隙間を縫って、俺の皮膚に直接警告を発してくる。 体育館の温水プールから出た後の、あの湿度を孕んだ微睡みのような余韻は、冬の夜の乾燥した闇に一瞬で奪い去られた。
「坊ちゃん。首元のエルメスが、わずかに風に遊ばれております。結び目の矜持を、今一度」
阿久津が、闇の中でも白く光る清潔なハンカチを差し出した。 俺は無言で顎を引き、ピンホールのシャツが押し上げる小紋柄のタイを指先でなぞった。
「キュッ」
絹が擦れる密やかな音。それは、俺が再び「社会という戦場」へ戻るための、静かな開戦の合図だった。
「……阿久津。ビットコインの数字が、また少し跳ねたな」
「はい。現在1BTC、約1,300万円。2015年頃の2.5万円という端値 に比べれば、もはやこれは通貨ではなく、人類の欲望を数値化した『神話』でございます」
俺はスマホの画面を閉じ、ハコスカのドアノブに手をかけた。
「カチャリ」
冷え切った鋼鉄の感触。指先が金属に吸い付くような感覚は、生と死が隣り合わせだった少年院の鉄格子の冷たさを思い出させる。だが、今の俺はこの冷たさを「心地よい規律」として愛している。
「五億、か。……あの頃、俺が必死で稼いだ百万円 が、放置していただけでこれだけの怪物に育つとはな。……だが阿久津。俺はこの五億で、過去を買い取ろうとは思わない」
「左様で。……では、何を買い取るおつもりで?」
俺は運転席に滑り込み、ハコスカの重厚なドアを閉めた。
「ドムン……」
気密性の高い車内。外の暴力的な風の音は遮断され、JBLのスピーカーから流れる静かなピアノソロが、俺の耳を優しく愛撫する。
「『未来の絆』だ。……介護保険の枠に収まりきらない、見捨てられた老人たちの寂しさを、俺の五億で、そして俺の仲間たちの腕で埋めてやる。……これが、俺の新しい『しのぎ』だ」
俺はイグニッションキーを回した。
「キュルルッ、キュルルル……ドォォン!!」
S20エンジンの咆哮。腹の底まで響くその振動は、どんな高級マッサージ機よりも俺の魂を活性化させる。ハコスカは、雪を孕んだ夜の道を、一速ずつ、丁寧に、噛みしめるように進み出した。
「ザシュッ、ザシュッ……」
タイヤが、降り始めたばかりの薄い雪を押しつぶす音。 バックミラーには、竜二やケンタたちの車列が、まるでメデューサの髪のように一糸乱れぬ美しさで連なっていた。
「阿久津。見てろ。……俺たちは、過去を後悔しない。ただ、多角的な視点(メデューサ)で、この冬の冷たささえも『正解』に変えてみせる」
俺はアクセルを優しく踏み込んだ。 ハコスカのノーズが、富士の裾野から続く暗い夜道を、真っ直ぐに、どこまでも凛とした姿勢で切り裂いていく。
「フゥーッ……」
マフラーから吐き出される白い煙が、新年の希望を象徴するように、後方の闇へと静かに溶けていった。 五億の鼓動は、今、このアスファルトの上に刻まれている。
『5億積んだハコスカで行く、日本一静かなる初日の出暴走 ―法とマナーとメデューサの視点―』 春秋花壇 @mai5000jp
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