第10話 第10話:富士に誓う、次の10年

二〇二六年一月一日、午前六時四十五分。 富士山麓、本栖湖の畔に、その銀色の貴婦人は静かに佇んでいた。


周囲を包むのは、肺の奥まで凍りつかせるような凛冽たる大気。吐き出す息は瞬時に白く凍り、ハコスカのルーフには薄く降りた霜が、夜明け前の残照を浴びて青白く光っている。


「坊ちゃん。定刻でございます」


背後で、阿久津の声が響いた。彼は極寒の山中においても、乱れひとつない三つ揃えのスーツを纏い、手袋をはめた手で、銀のトレイを恭しく掲げている。その上には、丁寧にハンドドリップされた漆黒の液体が、白い陶磁器のカップの中で静かに波紋を立てていた。


俺はハコスカの運転席から降り、リーガルの踵で凍土を踏みしめた。アルマーニのコートの襟を立て、ピンホールのシャツに宿るプラチナの輝きを指先で確かめる。


「……阿久津。ビットコインの最終レートはどうなった」


「2025年12月中旬、87,497ドル前後を推移していた数字は、現在、新年の幕開けと共に安定しております。日本円にして約5億7千万円。……画面の中の数字は、変わらず坊ちゃんの背中を支えております」


「そうか。……だが、そんなものはもう、どうでもいい」


俺はカップを受け取り、ハコスカのボンネット越しに、まだ闇の残る富士の稜線を見据えた。 コーヒーの熱い湯気が鼻腔をくすぐり、深い苦味が凍えた身体を芯から呼び覚ましていく。


やがて、巨人の背中のような稜線の向こう側から、劇的な光の矢が放たれた。


「……来るぞ」


初日の出。 その強烈な黄金色の光が、ハコスカの美しいエッジを、フェンダーの流麗な曲線を、一点の曇りもなく照らし出していく。 「羊の皮を被った狼」と呼ばれたそのボディが、今、神殿の供物のように神々しく輝いていた。


「阿久津。ビットコインが何倍になろうが、たとえ無価値になろうが、俺の生き方は変わらねえ」


俺は、熱いコーヒーを一口啜り、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「金で買えるのは、飾られただけの空虚な贅沢だ。だが、このハコスカと対話し、法を完璧に履きこなし、仲間たちと一糸乱れぬ車列でここまで来た……この感触だけは、五億の数字にも代えられねえ」


「左様でございますね。……メデューサのように多角的な視点を持てば、資産とは、ただの『道具』に過ぎない。重要なのは、それを握る者の意志でございます」


俺はバックミラー越しに、背後に並ぶ竜二や若者たちの車列を見た。 彼らもまた、それぞれの車の傍らに立ち、静かに太陽を仰いでいる。かつての騒音も怒号もない。そこにあるのは、自分を律した者だけが味わえる、高潔な静寂だった。


「俺はこれから、次の十年をかけて、本物の『しのぎ』を証明する。……いい男とは、誰にも見られていない場所でこそ、最も美しいブレーキを踏める男のことだ」


「坊ちゃん。……そのネクタイの小紋柄、初日の出の光を受けて、まるで未来への座標のように輝いておりますよ」


阿久津が、満足げに目を細めた。 俺は空になったカップをトレイに戻し、ハコスカのボンネットにそっと触れた。 冷たくて、硬くて、けれど確かな温もりを宿した、俺の愛車。


「行くぞ、阿久津。丁寧な暮らしは、ここからが本番だ」


「御意。……坊ちゃん。出発の前に、コーヒーの雫が一滴、ハコスカの鼻先に。私が速やかに処置いたします」


俺は笑い、イグニッションを回した。 伝説のS20エンジンが、新春の空気を震わせて目覚める。 五億の鼓動を背負い、リーガルを履いた悪役令息は、光り輝く富士の麓、誰も歩んでいない真っ直ぐな道へと、静かに、そして気高く滑り出した。


『五億の鼓動、静寂のハコスカ ―リーガルを履いた悪役令息の、完全合法(リーガル)なる日の出暴走―』 ―― 完 ――



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