第9話 『ハイウェイ・バレエ ―六法全書と歓喜の歌(アデ・ツゥ・フロイデ)―』

中央自動車道の漆黒の闇を、ハコスカのヘッドライトが鋭く切り裂く。 車内には、JBLのスピーカーから流れるベートーヴェン「第九」の第四楽章が、荘厳に響き渡っていた。


「Freude, schöner Götterfunken(歓喜よ、美しき神々の火花よ)――」


バリトンの独唱が始まった瞬間、俺の視界の先、大月インターチェンジ付近に赤色灯の群れが見えた。警察の検問だ。


「坊ちゃん。どうやらあちら様も、我々の『歓喜の歌』に加わりたいようでございます」


助手席の阿久津は、膝の上の六法全書を閉じ、ピンホールのシャツの襟を正した。彼の指先には、一ミリの揺らぎもない。


「いいだろう。俺たちが目指すのは『Alle Menschen werden Brüder(すべての人間は兄弟となる)』という調和の世界だ。……ただし、法の下においてな」


俺はハコスカの速度を時速80キロの法定速度から、さらに数キロ落として、滑らかに減速した。背後のサバンナ、Z、そして若者たちの車列も、まるで一つの生命体のように、同時に、かつ静かにブレーキランプを点した。


警察官たちが、驚愕の表情で俺たちを見ている。かつての初日の出暴走なら、ここで蛇行や爆音が轟くはずだ。だが、俺たちの車列はあまりにも静かで、あまりにも正確だった。


「止まれ! 窓を開けろ!」


拡声器の声に応じ、俺はパワーウィンドウではないハコスカの窓を、手巻きで優雅に下ろした。冬の鋭い冷気が、アルマーニのジャケットを撫でる。


「こんばんは、お巡りさん。新年の警備、ご苦労様です」


「お前ら……この時間、この車列、暴走行為の疑いがある! 免許証と車検証を出せ!」


駆け寄った佐藤隊員が、血走った目で車内を覗き込む。だが、彼の目に映ったのは、リーガルの靴を履き、エルメスの小紋柄タイを締めた、隙のない「紳士」と、その横で微笑む「弁護士」だった。


「隊員さん、言葉が過ぎますよ。道路交通法、および憲法で保障された移動の権利を、具体的な嫌疑なしに不当に拘束するのはいかがなものか」


阿久津が助手席から、銀のフレームの眼鏡を光らせながら、弁護士バッジを提示した。


「我々は一糸乱れぬ規律を保ち、車間距離を保持し、法定速度を遵守しております。何より、全車両が車検適合済み。……むしろ、我々の完璧な走行を『暴走』と呼ぶのであれば、それは日本語の定義に対する冒涜ではありませんか?」


佐藤隊員が絶句する。背後では、若者たちがPAで拾ったゴミ袋を、車内から誇らしげに掲げている。


「Seid umschlungen Millionen!(抱き合え、百万の同胞よ!)」


合唱団の歌声が最高潮に達する。 俺は一度、深くアクセルを踏んだ。爆音ではない。S20エンジンが奏でる、最高級の楽器のようなハミングだ。


「お巡りさん。俺たちはただ、富士に昇る新しい太陽を、誰よりも正しく迎えに行きたいだけなんだ。……行かせてもらえるか?」


警察官たちの包囲網が、魔法が解けたようにゆっくりと左右に割れた。 法的に一ミリの非も打てない、究極の「正当性」という名の暴力。


「……行って、よし」


佐藤隊員の小さな声を合図に、俺は再びクラッチを繋いだ。 ハコスカは静かに、そして気高く、検問の赤色灯をバックミラーの彼方へと置き去りにした。


「坊ちゃん。これぞまさに、ハイウェイ・バレエ。法とマナーの共演でございますね」


「ああ。……阿久津、第九の続きを。夜明けまで、俺たちの鼓動は止まらない」


五億の資産を背負い、法律を完璧に履きこなした蛇たちは、いよいよ富士の麓、伝説の夜明けへと向かって滑り出した。


第10話(最終回):富士に誓う、次の10年。 初日の出がハコスカの銀色のボディを照らし出し、28歳の悪役令息が、富士を前に「本当のしのぎ」を誓うクライマックスへ。


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