第8話:大晦日、出撃の時

第8話:大晦日、出撃の時


二〇二五年十二月三十一日、二十三時。 空は墨を流したように深く、刺すような凍てつく風が古民家の瓦を鳴らしている。


ガレージの前に広がるアスファルトの上には、異様な光景が広がっていた。ハコスカを先頭に、竜二のサバンナ、ケンタのZ。さらにその後ろには、SNSで俺の「しのぎ」を聞きつけた現役の若者たちの姿もあった。


かつてなら、ここには耳を潰さんばかりの空吹かしと、下品な族旗が翻っていたはずだ。だが今、そこにあるのは驚くべき「静寂」だった。


「坊ちゃん。集合、完了いたしました。一台のオイル漏れもなく、一台の整備不良もございません。……皆様、信じられないほどに『善良』な面構えをしております」


助手席に腰を下ろした阿久津が、膝の上に置かれた分厚い六法全書を愛おしそうに撫でた。その指先には、いつでも法廷に立てるほどの鋭い知性が宿っている。


「当然だ。俺の車列に加わる条件は、過去を捨てることじゃない。過去を背負ったまま、今の自分を完璧に律することだからな」


俺は運転席から、バックミラーに映る後続車の一台一台を凝視した。 照明に照らされたボディは、どれも鏡のように磨き上げられている。若者たちが乗る現行のスポーツカーも、騒々しいステッカーを剥がし、誇らしげに「車検適合」のステッカーを輝かせていた。


「おい、神宮寺。準備はいいか」 窓越しに、竜二が声をかけてきた。かつての特攻隊長は、今やネクタイこそ締めていないが、糊のきいた清潔な作業着を纏っている。 「速度制限マイナス五キロ、車間距離二十メートル。……俺の右足が、こんなに慎重になるのは人生で初めてだぜ」


「それでいい、竜二。その慎重さが、俺たちの新しい強さだ」


俺はピンホールのシャツの襟を正し、幾何学模様のタイに指を滑らせた。プラチナのピンが反射する光が、暗い車内を一瞬だけ白く射抜く。 アルマーニのジャケットの感触が、シートの革の匂いと混ざり合い、俺の精神を極限まで研ぎ澄ませていく。


「阿久津。ビットコインはどうだ」


「現在、87,497ドル付近で凪いでおります。まるで我々の出撃を、世界が静止して待っているかのようです」


「そうか。五億の資産があろうが、俺が今、この瞬間に握りしめているのは、重いクラッチペダルと、このハコスカの確かな鼓動だけだ」


俺はイグニッションを回した。 「ドォォン……」 重厚なアイドリング音が、冬の深夜の空気を震わせる。JBLのスピーカーからは、静かに、けれど厳かに第九が流れ始めた。


「行くぞ。ターゲットは富士。目的地は『夜明け』だ」


俺の合図とともに、車列がゆっくりと動き出す。 ウインカーの点滅までもが、音楽のリズムに合わせるかのように規則正しく。 一糸乱れぬ蛇の行列。メデューサの視線は今、漆黒のハイウェイへと向けられた。


「坊ちゃん。速度四十五キロ。制限速度内です。……完璧なスタートでございます」


「ああ。……これほどまでに静かで、これほどまでに熱い夜は、十年前には知らなかったな」


タイヤがアスファルトを噛む確かな振動。 背後に連なる、光の鎖。 俺たちは、過去の自分たちを置き去りにするように、静かに、けれど圧倒的な意志を持って、闇の奥へと滑り出していった。


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