第6話:クリスマスの「しのぎ」

第6話:クリスマスの「しのぎ」


十二月二十五日。世界が華やかな喧騒に浮き立つ聖夜、俺はアルマーニの袖をまくり、分厚い軍手をはめていた。


「坊ちゃん。本日の最終配達分、灯油缶が四本と、正月用の鏡餅、それに重い根菜類が数点。お届け先は山裾の佐藤様宅でございます」


阿久津が、タブレットで完璧に管理された配送リストを読み上げる。 五億七千万という莫大な資産。一分一秒で数百万が上下するビットコインの狂乱。そんなものは、今の俺には「画面の向こう側の出来事」に過ぎない。俺の今の「しのぎ」は、この古ぼけた町で独り暮らしを営む老人たちの、細い生命線を繋ぐことだ。


「……阿久津。雪が強くなってきたな。ハコスカにチェーンは履かせない。丁寧なアクセルワークだけで、この坂を制してやる」


「左様で。ですが、佐藤様は坊ちゃんの『高級な御用聞き』を、首を長くして待っておいでですよ」


俺はハコスカのトランクに、ずっしりと重いポリタンクを慎重に積み込んだ。 貴婦人のようなハコスカに灯油を積む。鬼龍院が見れば発狂するような光景だろうが、俺にとってはこれこそが最高に贅沢な「丁寧な暮らし」だ。


雪道を、ハコスカが静かに進む。 JBLのスピーカーからは、賛美歌が微かな音量で流れ、S20エンジンの低い鼓動と重なり合う。ハンドルから伝わる路面の感触。滑りやすい雪の層の下にある、確かなアスファルトの拒絶を、俺の五感はメデューサのように多角的に捉えていた。


「……神宮寺さん、かい? いつも悪いねえ」


山裾の、古びた平屋から顔を出したのは、腰の曲がった佐藤の婆さんだ。 俺はハコスカを降り、雪を踏みしめるリーガルの感触を楽しみながら、十八リットルの灯油缶を両手に提げた。


「いいんですよ、佐藤さん。これが俺の『しのぎ』ですから」


「まあまあ、そんな高い背広を着て……。お正月も、この綺麗な車でどこかへ行くのかい?」


「ええ。少し、富士まで『集団参拝』に。交通ルールを誰よりも守って、静かに走ってきます」


俺は婆さんの家の勝手口に灯油を運び込み、凍えた手で受け取られた代金の「数千円」を、恭しく懐に収めた。数分前に消失したはずのビットコインの含み益「数百万円」よりも、この千円札一枚の重みが、今の俺を「いい男」に変えてくれる。


「坊ちゃん。足元の雪、リーガルのコバに詰まっております。帰宅後の手入れを念入りに」


「分かっている。阿久津……。あの婆さんの笑顔を見たか。五億持ってる俺に、誰も『金持ち』の視線を向けない。ただ、灯油を運んできた男として感謝される。これが本当の『自由』だな」


「左様で。……ですが、ハコスカの車内にわずかに灯油の匂いが残りました。これもまた、聖夜の香りと呼ぶにはいささか野性的でございますね」


俺は運転席に戻り、ピンホールのシャツの襟元を正した。 窓の外では、雪がすべてを白く覆い隠していく。


「阿久津、俺は嬉しいよ。十年前、少年院でこの雪を見ていた時は、世界中を呪っていた。だが今は、このハコスカと、五億の資産と、そしてこの重い灯油缶がある。……俺は、社会と繋がっている」


ハコスカが、ゆっくりと雪の坂道を下り始める。 ブレーキランプが、白銀の世界に鮮やかな赤を灯す。 誰にも気づかれない、五億のサンタクロース。 俺は幾何学模様のタイを締め直し、聖夜の静寂を切り裂くことなく、ハコスカを優雅に滑らせた。


「さあ、帰ろう。明日は大晦日の『作戦会議』だ。蛇たちを震えさせるほどの、完璧なルートを提示してやる」


「御意。……坊ちゃん、鼻先に雪が。一ミリの隙もない紳士として、お拭いください」


俺は苦笑し、エルメスのハンカチで雪を拭った。 富士へのカウントダウンは、この静かな雪の夜に、確かな熱を帯びていた。


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