第5話:ハコスカ、貴婦人の鼓動

第5話:ハコスカ、貴婦人の鼓動


十二月の薄い陽光が、ガレージのコンクリート床に長い影を落としている。 すべての整備を終えたハコスカは、静謐な空気を纏って鎮座していた。その姿は、一見すれば端正な四枚ドアのセダンに過ぎない。世間が呼ぶ「羊の皮を被った狼」という異名は、この控えめな佇まいの奥に潜む狂暴なまでの性能を言い当てている。


だが、今の俺にとって彼女は、単なる狩猟者ではない。


「……仕上がりましたね、坊ちゃん」


阿久津が、銀のトレイに載せたばかりの淹れたてのコーヒーを差し出す。湯気が、磨き抜かれたフェンダーに映る冬の空を微かに揺らした。


「ああ。最高に丁寧な仕事をしたつもりだ。阿久津、火を入れるぞ」


運転席に滑り込み、重いドアを閉める。「ドン」という、密度の高い鋼鉄の音が胸に響く。 イグニッションを回すと、伝説のS20エンジンが目を覚ました。 「ドォォン!」 咆哮。それは、現代の電子制御された車が発する計算された音ではない。爆発と摩擦、そして金属の激しいぶつかり合いが生み出す、生々しい生命の叫びだ。JBLのスピーカーから流れる静かな調べが、その野性的な重低音と見事に調和し、車内を濃密な「秩序」で満たしていく。


「ふん。相変わらず、古臭い音を撒き散らしてやがるな」


背後から、不快なほど高飛車な声がした。 ガレージの入り口に立っていたのは、かつての宿敵、鬼龍院だ。 彼は五千万円は下らない最新のイタリア製スーパーカーに身を預け、派手なブランドロゴが並ぶジャケットをこれ見よがしに羽織っている。


「鬼龍院か。相変わらず、騒々しい服を着ているな」


俺はエンジンを止め、ハコスカから降りた。リーガルの靴が、乾いた音を立てて地を蹴る。


「おい、神宮寺。噂は聞いてるぜ。十年前のビットコインを放置して、五億の『億り人』になったんだってなあ。おめでとうよ」


鬼龍院は俺のアルマーニを値踏みするように眺め、鼻で笑った。


「だがよ、五億も持ってるなら、そんなボロはさっさとスクラップにして、俺みたいな『勝者の車』に乗り換えたらどうだ? 今更ハコスカなんて、時代遅れの骨董品だろうが」


その言葉を聞いた瞬間、隣に控えていた阿久津の眉が、ナイフのように鋭く跳ね上がった。だが、俺は片手で彼を制した。


「鬼龍院。お前の車は確かに速いだろう。金を出せば、今すぐにでも手に入る『最新の機能』だ」


俺は一歩踏み出し、ハコスカのルーフを愛おしむように撫でた。 冷たく、しかし血が通っているかのような、奇妙な温もり。


「だが、こいつは違う。こいつは『貴婦人』だ。……お前は金で車体は買えるが、そこに刻まれた歴史までは買えねえ。何万回ものシフトチェンジ、歴代のオーナーが流した汗、そして俺が少年院で夢にまで見た、こいつのステアリングを握る感触。……五億あろうが十億あろうが、積み上げられた『時間』という名のしのぎは、金じゃ動かせねえんだよ」


「……歴史だと? んなもん、一文にもなりゃしねえだろうが」


「お前にはそう見えるだろうな。一方向からしか物事を見られない奴には。だが、俺はメデューサの視点を持っている」


俺は、小紋柄のタイを締め直し、鬼龍院の目を真っ向から射抜いた。


「このハコスカは、羊の皮を被っているが、その実、誰よりも矜持高い狼だ。……そして、俺も同じだ。五億を背負い、法律を完璧に履きこなし、丁寧な暮らしを送りながら、心には牙を隠し持っている」


「……チッ。相変わらず、理屈っぽい野郎だ」


鬼龍院は毒気を抜かれたように、自分のスーパーカーへと戻っていった。 「日の出に富士へ行くんだろ? せいぜい、そのボロで遅れないように来るんだな。俺は先に行ってるぜ」


排気音を轟かせて去っていくイタリア車を見送りながら、俺は静かに深く息を吐いた。 冬の冷たい空気が、肺を浄化していく。


「坊ちゃん。あの男の無作法、法的措置を検討いたしましょうか」


「いいさ、阿久津。彼はただ、数字でしか世界を測れないだけだ。それより……」


俺は再び、ハコスカの心臓部の鼓動を聴いた。 「彼女の機嫌がすこぶるいい。阿久津、俺たちに相応しい夜明けが見えてきたぞ」


「左様でございますね。……坊ちゃん、ネクタイが三ミリほど左に寄っております。貴婦人と対峙する紳士として、ここは妥協を許されません」


俺は苦笑し、阿久津の指摘通りに幾何学の規律を正した。 ハコスカの鼓動。五億の資産。アルマーニの肌触り。 すべてが、一つの交響曲のように調和し始めていた。


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