第4話:12月中旬、ビットコインの乱高下
十二月中旬の朝。古民家の庭に敷き詰められた霜が、朝陽を浴びてダイヤモンドの粉のようにきらめいている。吐き出す息は白く、静寂を裂くのは、遠くで鳴く野鳥の声と、俺がハコスカのボディを磨くセーム革の微かな摩擦音だけだ。
「坊ちゃん。世界が揺れております」
縁側から、阿久津の低く抑制された声が響いた。彼の手には最新のタブレットが握られ、その画面上では赤い数字と緑の数字が、まるで狂った心電図のように激しく明滅している。
「ビットコイン価格が87,000ドル、日本円にして約1,300万円を境界線に、恐ろしいほどの乱高下を見せております。ここ数時間で、坊ちゃんの含み益は都内の高級マンション一棟分ほど消失し、また数分でそれを取り戻しております」
俺はハコスカの流麗なフェンダーに映り込む、冬の青空を見つめた。セーム革を持つ指先に、冷え切った鋼鉄の確かな「硬度」が伝わってくる。
「阿久津。数字の乱高下は、風の音と同じだ。窓を閉めれば聞こえん」
「ですが坊ちゃん、これほどのボラティリティ(価格変動)です。一度利確を行い、より安定した金(ゴールド)や、実物資産への分散投資を検討すべきかと。弁護士として、また貴方の資産管理者として言わせていただければ、現在の状況はあまりに非合理的でございます」
阿久津の声には、珍しく微かな焦燥が混じっていた。だが、俺は一度も手を止めない。
「画面の中の数字に一喜一憂するのは、丁寧な暮らしじゃない」
俺は立ち上がり、汚れたセーム革をバケツに投げ入れた。そして、ピンホールのシャツの襟を正し、幾何学模様のタイに指をかける。
「阿久津、お前には見えないか。このハコスカの心臓部、S20エンジンの中で繰り返される、完璧なまでのピストンの往復運動が」
俺はガレージの奥から、分解して磨き上げたばかりのピストンを一つ、手に取った。冷たく、重く、そして美しい。
「ビットコインが何億になろうが、一秒間に数百回繰り返されるこの往復運動の『精度』は変わらない。俺が信じているのは、この掌にある重みと、油の匂いと、組み上げた分だけ確実に美しくなるこの機械の誠実さだ。数字は裏切るが、物理法則は裏切らない」
「……ロマンチストですね、坊ちゃんは」
阿久津は溜息をつき、タブレットを閉じた。その仕草に、彼本来の冷静さが戻る。
「だが、それがお前の言う『合理性』なんだろう? 阿久津。不確かな未来の数字を追って、今ここにある静かな朝を汚すことほど、不経済なことはない」
俺はピストンを元の位置に置き、ハコスカの運転席に腰を下ろした。革のシートが、微かな軋み音を立てて俺の身体を受け入れる。JBLのスピーカーからは、今朝の空気に相応しい、研ぎ澄まされたバッハの旋律が流れ出した。
「坊ちゃん。先ほど、竜二殿から連絡がございました。サバンナの整備が完了し、車検場を『一発合格』で通ったとのことです。ブレーキランプの光量まで、規定値のど真ん中だったと、誇らしげに語っておられました」
「ふ……。五億の暴落よりも、そっちの方がよほど価値のあるニュースだ」
俺はイグニッションキーを回した。 キュル、キュル……ドォォン!
S20エンジンが、眠りから覚めた獣のように力強い咆哮を上げた。アイドリングの鼓動が、俺の背中から脳髄へと直接突き抜ける。この一糸乱れぬリズム。
「見ろ、阿久津。このタコメーターの針の動きを。数字ってのは、こういう風に『自分の意志』で動かすもんだ」
「左様でございますね。……坊ちゃん、タイの結び目が一ミリほど左に寄っております。富士を目指す男のVゾーンに、乱高下は許されません」
阿久津は鏡のように滑らかな動作で、俺の胸元を整えた。
「行くぞ。数字の海で溺れている奴らを尻目に、俺たちはアスファルトの上にある現実を、一速ずつ、丁寧に踏みしめていく」
ハコスカがゆっくりと動き出す。 五億の資産を背負いながら、俺が見ているのは、目の前の信号が青に変わる瞬間と、エンジンの奏でる完璧な旋律だけだった。
冬の陽光が、アルマーニの袖口を白く照らす。 丁寧な暮らし。それは、世界がどれほど騒がしくとも、己の中のピストンを、正しく、美しく動かし続けることだ。
次は第5話:ハコスカ、貴婦人の鼓動。 いよいよ整備が完了し、かつての宿敵・鬼龍院との再会、そして「金では買えない価値」を巡る対峙へと物語は加速します。
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