第3話:メデューサの視点

第3話:メデューサの視点


油と鉄錆の匂いが、冬の乾いた風に乗って鼻腔を突く。 そこは、かつて俺たちが「力」の象徴として崇めていた暴力的な騒音の聖地ではなく、ただ黙々と、壊れた日常を修理し続ける町工場だった。


「……何の用だ、神宮寺。見ての通り、俺は今、忙しいんだ」


リフトに上げられた軽トラの下から、煤まみれの顔が覗いた。竜二だ。かつては『メデューサ』の特攻隊長として、誰よりも速く、誰よりも鋭く闇を切り裂いていた男。その指先は、今ではエンジンの煤と安物のグリスで真っ黒に染まっている。


俺は、アルマーニの裾を汚さぬよう配慮しながら、コンクリートの床にリーガルの踵を鳴らした。


「竜二。いい男になったな」


「皮肉かよ。お前みたいに、放置してた金が5億になった『億り人』とは住む世界が違うんだ」


「世界は一つだ、竜二。だが、その見え方は視点一つで変わる」


俺は胸元の小紋柄のタイに指を触れ、プラチナのピンが支えるノットの感触を確かめた。


「メデューサを覚えているか。千の蛇の髪を持つ怪物だ。多くの奴らは、その異形を恐れ、一方向からしか見ない。だが、俺の解釈は違う。メデューサの強さは、千の蛇がそれぞれ別の方向を向き、多角的に、全方位の真実を捉えていることにある」


竜二が工具を置き、ゆっくりと立ち上がった。その目は、まだ死んでいなかった。


「多角的な視点だあ? 難しいこと言ってんじゃねえよ」


「警察の視点、市民の視点、そして法律の視点。そのすべてを捉えた上で、俺たちはもう一度走る。……『初日の出暴走』だ」


竜二の眉がピクリと跳ねた。だが、俺は続けた。


「ただし、条件がある。整備不良は一切認めない。信号は一秒の狂いなく遵守。蛇行禁止、空吹かし禁止、車間距離の保持。……これを完璧にこなすのが、令和の『メデューサ』だ」


「……はあ? それのどこが暴走なんだよ。ただの安全運転講習会じゃねえか」


「逆だ、竜二」 俺は一歩、踏み込んだ。 「ルールを破るのは子供の遊びだ。だが、ルールを完璧に乗りこなし、法の網の目の中を、優雅に、かつ圧倒的な存在感で流れる。警察が手出しできず、沿道の市民がその美しさに息を呑む。それこそが、本物の『しのぎ』ができる大人の暴走だろうが」


阿久津が横から、一通の書類を差し出した。竜二のサバンナRX-3の車検証と、最新の法規チェックシートだ。


「竜二殿。坊ちゃんの車列に加わるには、このチェック項目をすべてクリアしていただく必要があります。ブレーキランプの光量、タイヤの溝、排ガス規制値。一つでも漏れがあれば、私は貴殿をその場で『被告』として扱う用意があります」


「弁護士が脅してんじゃねえよ……」 竜二は呆れたように笑ったが、その瞳に、かつての熱が灯るのを俺は見逃さなかった。


俺は工場に停められた、埃を被ったサバンナを見つめた。 「竜二。お前の技術は、壊れた軽トラを直すためだけにあるのか? 違うだろう。かつてのメデューサの蛇たちよ、もう一度、頭(ヘッド)を上げろ。地に這いつくばって食い繋ぐだけの生活は終わりだ。この5億の鼓動を、お前のサバンナのロータリーに共鳴させてみせろ」


竜二はしばらく無言で、俺のピンホールのシャツと、その奥にある意志を凝視していた。 やがて、彼は汚れた手袋を脱ぎ捨てた。


「……信号、全部青で駆け抜けたら、俺の勝ちでいいんだな?」


「ああ。だが、青になるまで一ミリも白線を越えるなよ。それが俺のルールだ」


冬の太陽が傾き、工場の奥に眠る旧車たちのシルエットを長く伸ばす。 一人、また一人。俺はかつての蛇たちを訪ね歩く。 ITの荒波に揉まれて自信を失ったケンタには、「通信と統制の視点」を。 借金に追われるヒロシには、「経済と自律の視点」を。


俺の言葉は、説教ではない。5億という圧倒的な余裕を背景にした、冷徹なまでの「美学」の提示だ。


「阿久津。蛇たちは集まりつつあるな」


「はい、坊ちゃん。皆様、車検場へ向かう受験生のような顔をして、愛車を磨き直しておられます。これほどまでに法を恐れ、かつ法を愛する暴走族は、前代未聞でございます」


俺はハコスカのシートに深く腰を下ろし、BOSEのスピーカーから流れる、静かな、けれど力強いバッハに耳を傾けた。


「いい男の条件が増えたな、阿久津。それは、自分の過去さえも、多角的な視点で『正解』に書き換えられる男だ」


「左様でございます。……坊ちゃん、タイの結び目が、興奮でわずかに緩んでおります。修正を」


俺は笑って、幾何学の規律を正した。 富士の夜明けまで、あと数日。 メデューサの千の視線が、今、一つの光へと収束しようとしていた。


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