第2話:幾何学の規律とリーガル・チェック

第2話:幾何学の規律とリーガル・チェック


「坊ちゃん。コーヒーの二杯目は、グアテマラの深煎りにいたしましょうか。それとも、六法全書の『深読み』にいたしますか?」


古民家の居間の畳の上、阿久津が絹のような手つきでページをめくりながら問いかけてきた。俺は文机に向かい、アルマーニのジャケットを傍らに、ピンホールのシャツ姿で一枚の地図を睨みつけていた。


「阿久津、俺は『暴走』がしたいんだ。だが、それは社会のゴミになることじゃない。社会という巨大な回路の中に、一糸乱れぬ正確なパルスを叩き込むことだ」


阿久津は眼鏡を指先で押し上げ、冷徹な法曹家の瞳で俺を見た。


「暴走族、すなわち共同危険行為。道路交通法第六十八条は、二台以上の自動車が連なり、著しく交通の危険を生じさせ、または他人に迷惑を及ぼす行為を厳格に禁じております。……ですが、坊ちゃん。法には常に、正義という名の『隙間』がございます」


「隙間だと?」


「左様で。法第七十一条、運転者の遵守事項。そして公安委員会が定める規則。我々が成すべきは、『極めて高度な規律に基づいた集団移動』です。他人に迷惑をかけず、蛇行もせず、ただ静かに、冷徹に、同じ速度、同じ車間距離で、一列のメデューサの如く大地を這う。これは憲法で保障された『表現の自由』であり、『移動の自由』の範疇です」


「迷惑をかけない暴走、か。最高にシュールだな」 俺は自嘲気味に笑い、立ち上がって姿見の前へ向かった。阿久津が、待機させていたネクタイを恭しく差し出す。それは俺が予想していたエルメスのレジメンタルではなく、重厚なシルクの小紋柄タイだった。


「坊ちゃん。今日はあえて、斜め(レジメンタル)ではなく、正方形の連続(小紋柄)をお選びいたしました」


「……ほう」


俺は鏡の前で、ピンホールのシャツにそのタイを通す。プラチナのピンがノットをグイと持ち上げ、喉元に立体的な緊張感が生まれる。指先に伝わるシルクの重みは、これから背負う「規律」の重みそのものだ。


「小紋柄か。四角四面で、今の俺には似合いすぎるな」


「ええ。規則正しく並んだ正方形は、崩れることのない『秩序』の象徴です。道路交通法を遵守し、一糸乱れぬ車列を組む今日の『しのぎ』には、この幾何学的な規律こそが相応しい」


アルマーニのグレーのストライプスーツを羽織ると、タイの四角形が、まるでハコスカのメーター類のように整然と胸元で主張を始めた。鏡の中の俺は、かつての特攻服よりも遥かに鋭い威圧感を放っている。それは暴力ではなく、「完璧な正当性」という名の、逃げ場のない圧力だった。


「いいだろう。斜めの情熱より、今は垂直と水平の理性が要る」


俺はポケットチーフの角を鋭く整え、ガレージへと向かう。胸元に宿った「四角い規律」が、アクセルを踏む右足の自制心を、より一層強固なものにしていた。


ガレージの引き戸を開けると、冬の陽光がハコスカのシルバーの肌を優しく撫でている。 「改装はしないと言ったな。だが、中身は別だ。BOSEとJBLのスピーカー、そしてS20の心臓。こいつらは、法を犯すためではなく、俺たちが『正しくあること』を楽しむために存在する」


「左様で。……坊ちゃん、一つ確認ですが。同行する方々にも、この『リーガル・スタンダード』を徹底させてもよろしいですね? 整備不良一台につき、私がその場で督促状を書くことになりますが」


「ああ。竜二たちにも伝えろ。オイル漏れ一つ、ウインカーの球切れ一つあっても、俺の車列には入れない。俺たちは、日本一静かで、日本一礼儀正しい、日本一恐ろしい集団になるんだ」


俺はリーガルの靴を鳴らし、コンクリートの床を踏みしめた。 五億の資産を背負い、法律を味方につけ、俺たちは富士を目指す。 マフラーの音は小さく、しかし意志の重さは、十二月の凍土を沈ませるほどに深い。


「行くぞ、阿久津。まずは竜二の工場だ。奴のサバンナが、俺の『幾何学』に耐えうるか見極めに行く」


「かしこまりました。……坊ちゃん、お出掛けの前に、靴の埃を。REGALの輝きは、その方の矜持そのものでございますから」


俺は阿久津に差し出されたブラシを受け取り、自分の足元を冷徹に磨き上げた。 日本一静かなる日の出暴走。 その序曲は、法典をめくる音と、タイを締める指先の静かな摩擦音から始まったのだ。

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