『五億の鼓動、静寂のハコスカ ―リーガルを履いた悪役令息の、完全合法(リーガル)なる日の出暴走―』

『五億の鼓動、静寂のハコスカ ―リーガルを履いた悪役令息の、完全合法(リーガル)なる日の出暴走―』

師走の凍てつく空気は、剃刀のような鋭さで頬を撫でる。 東京都郊外、築八十年の古民家の土間。そこには研ぎ澄まされた静寂と、微かなオイルの香りが混じり合っていた。


「坊ちゃん。そのキャブの調整、もう三時間は続けておいでですよ。丁寧な暮らしも結構ですが、睡眠もまた、生活の質を左右する重要な要素かと」


背後から、一切の乱れもない声が響いた。 三つ揃えのスーツに身を包んだ執事、阿久津だ。彼は手袋をはめた手で、銀のトレイを捧げ持っている。湯気を立てるボーンチャイナのカップからは、厳選された豆の香ばしい匂いが漂った。


「阿久津。いい男になりたいんだ」


俺は、ハコスカ――スカイラインGT-Rのボンネットの中に頭を突っ込んだまま、低く答えた。指先は真っ黒に汚れ、感覚は寒さで麻痺しかけている。だが、10ミリのスパナを握る感触だけは、脳髄に直接繋がっているかのように鮮明だ。


「いい男、でございますか」 「ああ。少年院を出てからずっと考えていた。金を持つことか? 力を振るうことか? ……違う。それはただの装飾だ。本物は、嵐の中でも歩行者優先を守り、5億の資産を抱えてもなお、路辺のゴミを拾える余裕を持つ男のことだ」


俺は身を起こし、阿久津からコーヒーを受け取った。 「現在の坊ちゃんの総資産は、ビットコインの評価額を含め、概ね5億7千万円。……昨日の暴落で、ベンツ数台分が吹き飛びましたが」 「構わん。画面の中の数字は、思い込みを補強するための分厚い舞台装置に過ぎない。俺が見るべきは、このハコスカのピストンが奏でる、規則正しい拍動だけだ」


コーヒーを飲み干すと、俺は姿見の前へ向かった。人生は思い込みでできている。「自分は一流だ」と心に刻めば、指先の一つまでがその重力に従い始める。


ピンホールのシャツ。その狭い襟元を、華美さを排したプラチナのピンが貫く。レジメンタルタイの結び目は、今日はエルメスを選んだ。絹の滑らかさが指先に吸い付き、きゅっと締まる感触が、戦いに向かう武士の紐解きに似た緊張感をもたらす。 その上に、アルマーニのスーツをさらっと羽織る。肩のラインが、俺の肉体の一部であるかのように馴染む。


そして、玄関に用意された磨き上げられた黒のプレーントゥを見つめた。 「……靴は、REGAL(リーガル)か」 「学生じゃあるまいし、と笑いますか?」 「いや、関東の履き道楽はまず基本を知ることからだ。ここから俺に本当に似合う靴を探す旅が始まる。地に足をつけるとは、こういうことだ」


革の硬い感触が、踵を包み込む。コツン、とタイルの上で鳴る乾いた音。 この音が、俺を「悪役」から「紳士」へと変えるスイッチだ。


ガレージへ向かうと、愛車が鎮座していた。 スカイラインGT-R。その直線と曲線が織りなすフォルムは、名の通ったどんな貴婦人よりも気高い。リアウィンドウの棚には、小ぶりながらも確かな存在感を放つBOSEとJBLのスピーカーが。 「純正を壊さず、音は妥協しない。これこそが丁寧な暮らしだ」


オーディオを入れると、透明なピアノソロが車内を満たす。 「坊ちゃん。例のリーガル・チェックは完璧です。道路交通法を遵守し、万が一の際は私が助手席から即座に弁護士バッジを提示します」 「暴走族が弁護士を連れて走るか。笑えない冗談だな」 「いいえ。これは志を同じくする者たちによる、新春の『集団参拝ツーリング』でございます」


俺はハコスカの運転席に滑り込んだ。 イグニッションを回すと、S20エンジンが目覚めた。ドクッ、ドクッ、と、力強く抑制されたビートが身体に伝わる。


「阿久津、俺はメデューサになりたい」 「多角的な視点を持つ、という意味でございますね」 「ああ。警察、沿道の市民、設計者。そのすべてを同時に把握して走る。それが俺の言う『しのぎ』だ」


ガレージの外に出ると、冬の星座が刺すように冷たく輝いていた。 排気音は驚くほど静かだ。だが、エンジンの爆発が、JBLのスピーカーから流れる旋律と共鳴し、俺の胸を高鳴らせる。


「阿久津。ビットコインのレートは?」 「現在、1BTCあたり約1,300万円。安定しております」 「そうか。5億あるなら、もっといいスーツも買える。だが、俺はこのリーガルでブレーキを踏み、このエルメスで汗を拭く。それが、俺の選んだ道の形だ」


ハンドルを握る手に力を込める。 強さとは、暴力ではない。 豊かさとは、贅沢ではない。 それは、自分に課したルールを、誰にも見られていない場所で守り通す高潔さのことだ。


深夜の国道。 前方の信号が、静かに黄色から赤へと落ちる。 俺は滑らかにブレーキを踏んだ。ハコスカの鼻先が、停止線の手前数センチでピタリと止まる。


「丁寧な暮らし、か。悪くない」


俺はバックミラーに映る自分に、一度だけ、微かな笑みを向けた。 アイドリングの鼓動が、静寂の中に溶けていく。 まだ、夜明けは遠い。 だが、青信号を待つこの数秒の空白こそが、新しい俺の人生そのものだった。


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