第1話:冬の朝、5億7千万と丁寧な暮らし

十二月の朝は、骨まで凍てつくような冷気で幕を開ける。


築八十年の古民家。その縁側に座り、俺は鉄瓶で沸かした白湯を啜っていた。立ち上る湯気が鼻先を掠め、ゆっくりと肺に落ちる。少年刑務所の、あの剥き出しのコンクリートの冷たさを知っているからこそ、この「丁寧な暮らし」の温もりが、肌を刺すような贅沢に感じられた。


「坊ちゃん。例の『遺物』の件ですが、数字が確定いたしました」


背後で、阿久津がタブレットを手に静かに控えていた。執事という肩書き、弁護士資格という盾、そして一分の隙もない三つ揃えのスーツ。彼こそが、この家の静寂を支える背骨だ。


「……いくらになった」


「現在、2025年12月中旬。ビットコインの価格は一時期の暴落を乗り越え、約1,300万円前後を推移しております。坊ちゃんが十年前、なけなしの百万円を投じて放置されていた約39BTC。現在の評価額は……約5億7千万円でございます」


5億7千万。 その数字を聞いても、俺の指先は微塵も揺れなかった。かつての俺なら、その金で繁華街を買い占め、シャンパンの海に溺れていただろう。だが、塀の中で学んだのは、欲望に振り回される男の「格好悪さ」だ。


「阿久津、金はただの数字だ。見すぎれば目が潰れる」


「左様で。ですが、これだけの『しのぎ』の余剰があれば、人生の選択肢は無限に広がりますが」


「いや、違うな。俺がしたいのは、この金で何を買うかじゃない。この金があろうとなかろうと、己の美学を貫けるかどうかの証明だ。……本当の『しのぎ』ってのは、汗と油の向こう側にしかないんだよ」


俺は白湯を飲み干すと、立ち上がった。 向かう先は、母屋の隣にあるガレージだ。重い引き戸を開けると、冬の微かな光の中に「彼女」が眠っていた。


スカイラインGT-R。通称、ハコスカ。


その直線的なフォルムは、どこまでも潔く、凛としている。磨き抜かれたシルバーのボディが、朝日を受けて鈍く光る。俺は作業着に袖を通し、ハコスカの前に膝をついた。


「今日はエンジンの腰下を組む。阿久津、手伝え」


「承知いたしました。……それにしても、5億を所有しながら、ご自身でクランクシャフトを磨く御仁は、日本広しといえど坊ちゃんくらいのものでしょう」


阿久津は皮肉めいた微笑を浮かべながらも、慣れた手つきでトルクレンチを差し出してきた。


ガレージの中に、金属が触れ合う硬質な音が響き始める。 冷え切った鋼鉄の重み。指先に伝わる、ミクロン単位の凹凸。オイルの鼻を突くような香りが、脳の奥深くにある野性を呼び覚ます。


「見てろ、阿久津。このS20エンジンはな、ただの機械じゃない。設計者の執念と、これまでのオーナーたちが刻んだ歴史の集積だ。ここに新しい命を吹き込む。それが俺の選んだ『丁寧な暮らし』の儀式だ」


俺は、クランクシャフトを慎重に収めた。 5億という数字が、頭の片隅でメデューサの蛇のように蠢いている。だが、今、俺の全神経は、ベアリングのわずかなクリアランスに集中していた。ここで妥協すれば、ハコスカはただの「動く骨董品」に成り下がる。


「……坊ちゃん、一つお伺いしても?」


阿久津がボルトを磨きながら口を開いた。


「なんだ」


「これほどの資産があれば、最新のフェラーリも、プライベートジェットも手に入ります。なぜ、あえてこの、手のかかる『旧い女』なのですか」


俺は手を止め、ハコスカのフェンダーにそっと触れた。 「最新の車は、金を出せば誰でも手に入る。だが、こいつは違う。愛情を注ぎ、対話し、時には指を血で汚さなければ、本当の姿を見せてくれない。……少年院で学んだよ。簡単に手に入るものに、価値なんてねえんだ。俺がいい男になれるかどうかは、このハコスカが証明してくれる」


作業は数時間に及んだ。 額に滲む汗が、冬の冷気に触れてすぐに冷える。だが、心臓の鼓動は熱かった。 ひとつ、またひとつ。ボルトを締めるたびに、俺の中のバラバラだったピースが噛み合っていく感覚がある。5億7千万という重圧を、この鉄の塊に分散させていくような、不思議な安堵感。


「よし。腰下は終わった」


俺が立ち上がると、膝の関節がパキリと鳴った。 阿久津がどこからか、温かいタオルを差し出してくる。


「お疲れ様でした。坊ちゃんの指、真っ黒ですね。まるでかつての『しのぎ』を彷彿とさせます」


「ああ。だが、この汚れは誇りだ。……阿久津、俺は決めたぞ。今年の締めくくり、富士を目指す」


「富士、でございますか」


「ああ。日本一の山に、日本一静かなハコスカで乗り込む。暴走じゃない。これは、俺たちの『礼節』だ。道路交通法を一字一句守り、誰よりも美しく、車列を成して走る」


俺はガレージの壁に立てかけた姿見を見た。 そこには、煤だらけの顔をしながらも、十年前よりも遥かに澄んだ目をした一人の男が映っていた。


「いい男になりたい。ただそれだけだ」


「……かしこまりました。では、私は早速、富士までの最短かつ、最も法的に『隙のない』ルートを算定いたします。それと、当日の服装についても。アルマーニのスーツに合うドライビングシューズ、REGAL以外にもいくつか候補を揃えておきました」


「気が利くな、阿久津」


俺は作業着を脱ぎ、古民家の廊下に腰を下ろした。 遠くで冬の鳥が鳴いている。 ビットコインのレートがどれほど跳ねようが、俺が明日やるべきことは変わらない。 ハコスカのヘッドを組み、ピカピカに磨き、丁寧な朝食を摂る。


「5億の鼓動、か……」


俺は自嘲気味に笑い、冷えた空気を深く吸い込んだ。 ガレージの中で眠るハコスカが、主人の決意に応えるように、微かに銀色の光を放った気がした。


俺の「初めての日の出暴走」へのカウントダウンは、今、静かに始まったのだ。


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