プロローグ

師走の凍てつく空気は、剃刀のような鋭さで頬を撫でる。 東京都郊外、築八十年の古民家の土間。そこには、研ぎ澄まされた静寂と、微かなオイルの香りが混じり合っていた。


「坊ちゃん。そのキャブの調整、もう三時間は続けておいでですよ。丁寧な暮らしも結構ですが、睡眠もまた、生活の質を左右する重要な要素かと」


背後から、一切の乱れもない声が響いた。 三つ揃えのスーツに身を包んだ執事、阿久津だ。彼は手袋をはめた手で、銀のトレイを捧げ持っている。湯気を立てるボーンチャイナのカップからは、厳選された豆の香ばしい匂いが漂った。


「阿久津。いい男になりたいんだ」


俺は、ハコスカ――スカイラインGT-Rのボンネットの中に頭を突っ込んだまま、低く答えた。指先は真っ黒に汚れ、感覚は寒さで麻痺しかけている。だが、10ミリのスパナを握る感触だけは、脳髄に直接繋がっているかのように鮮明だ。


「いい男、でございますか」 「ああ。少年院を出てからずっと考えていた。金を持つことか? 力を振るうことか? ……違うな。それはただの、装飾だ。本物は、嵐の中でも歩行者優先を守り、5億の資産を抱えてもなお、路辺のゴミを拾える余裕を持つ男のことだ」


俺は身を起こし、阿久津からコーヒーを受け取った。 指先から伝わるカップの温もりが、冷え切った身体にじわりと溶け出す。


「おっしゃる通り、現在の坊ちゃんの総資産は、ビットコインの評価額を含め、概ね5億7千万円。……昨日の暴落で、ベンツ数台分が吹き飛びましたが」 「構わん。画面の中の数字は、メデューサの石像のようなものだ。見すぎれば心が固まる。俺が見るべきは、このハコスカのピストンが奏でる、規則正しい拍動だけだ」


俺の愛車、ハコスカ。 10年前に少年院を出た直後、なけなしの金で買ったボロは、今や職人の手によって新車以上の輝きを放っている。しかし、派手なウィングも、爆音のマフラーも付いていない。フォルムはどこまでもオリジナルに忠実だ。この「貴婦人」のような凛とした佇まいを汚すことは、俺のプライドが許さない。


「それで阿久津。例のリーガル・チェックはどうなった」 「完璧です、坊ちゃん。道路交通法、第七十条『安全運転の義務』、および第七十一条『運転者の遵守事項』。これらを一字一句違わぬよう、同行する仲間たちにも徹底させました。集合場所でのアイドリングストップ、車間距離の保持。万が一、警察車両に停止を求められた際は、私が助手席から即座に弁護士バッジを提示し、適正な手続きであることを法的に証明いたします」


阿久津が眼鏡のブリッジを押し上げる。その瞳には、かつて俺が荒れていた頃にはなかった、冷徹なまでの信頼が宿っていた。


「ふん……。暴走族が弁護士を連れて走るか。笑えない冗談だな」 「いいえ。これは『暴走』ではなく、志を同じくする者たちによる、新春の『集団参拝ツーリング』でございます」


俺は、ハコスカのフェンダーにそっと触れた。 冷たくて硬い、けれど確かな生命力を感じる鋼鉄の感触。 10年前、俺は100万円をビットコインに放り込み、そのまま人生の「調整」に入った。少年院の窓から見えた月は、今夜の月と同じくらい青白かった。あの時、俺は飢えていた。世界を壊したいと思っていた。 だが、今の俺は、5億の資産を背景に、あえて「正しく」あることを選ぶ。それが、最大の反逆だからだ。


「阿久津、俺はメデューサになりたい」 「……多角的な視点を持つ、という意味でございますね」 「ああ。一方向からしか物事を見られない奴は、いつか必ず足を掬われる。警察の視点、沿道で眠る市民の視点、そして、このハコスカを造った設計者の視点。そのすべてを同時に把握して走る。それが俺の言う『しのぎ』だ」


俺はコーヒーを飲み干し、作業着を脱ぎ捨てた。 下に着ていたのは、仕立てのいいカシミアのセーターだ。


「さあ、行こうか。富士が待っている」


ガレージのシャッターが、重厚な音を立てて上がる。 外には、すでに数台の旧車が並んでいた。かつて俺と共に泥を啜った仲間たちだ。 彼らの車もまた、驚くほど静かだった。竹槍マフラーも、派手な日章旗もない。だが、その磨き上げられたボディからは、今の自分たちが「何者であるか」という誇りが滲み出ている。


「ヘッド! 準備できてます!」 一人の若者が叫ぶ。俺は首を振った。 「ヘッドはやめろと言っただろう。今の俺は、ただの丁寧な暮らしを愛する男だ。……車間距離は取ったな? ウインカーは30メートル手前だぞ」


仲間たちは顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。 かつては「いかに法を破るか」を競っていた俺たちが、今は「いかに美しく法を守るか」に心血を注いでいる。


俺はハコスカの運転席に滑り込んだ。 革の匂い。微かに残るガソリンの芳香。 イグニッションを回すと、S20エンジンが目覚めた。 ドクッ、ドクッ、と、力強く、それでいて抑制されたビートが身体に伝わってくる。 助手席では、阿久津がタブレットを開き、最新の渋滞情報とBTCのレートを確認している。


「坊ちゃん。出発の時刻です。現在のBTC価格、87,497ドル。安定しております。本年度最後の、そして新年度最初の『しのぎ』、お供させていただきます」 「ああ。行くぞ」


クラッチを繋ぐ。ハコスカは、絹の上を滑るように動き出した。 アクセルを踏み込む右足には、5億の重みではなく、未来への責任が乗っている。


深夜の国道。信号は青。 俺たちは、メデューサの蛇が絡み合うように、滑らかに、そして誰よりも静かに、夜の闇へと消えていった。


「いい男」への道は、まだ始まったばかりだ。 まずは、制限速度60キロの、その先にある夜明けを目指して。


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