第2話 音の谷、虫歌の庭

朝の光が、街の輪郭をはっきりさせていった。

歩き出すには、もう十分だった。


 周囲は真っ白。

濃く深い霧に包まれた渓谷に差し掛かっている。

当然のように何も見えず、ただぼんやりと、ランタンの灯りが一行を照らしていた。


 歩くだけで、湿気を帯びたローブが重くなる。

耳を澄ますと、遠くで水が唸りを上げて落ちていた。


「……ふむ、滝…か、近いな。」


 腕の中で丸くなる黒猫が、低い声で言った。


「そうね、少し辺りも冷たい風が吹いてるね…。」

リリィは、肩を震わせてエリンの腕を掴む。


「ここには、生き物は居るのかな…。魚や鳥の気配は感じないね。」

そう言って、周囲を見渡すエリンの足元を強い風が吹く。


 風の通り道を示すように、草の擦れる音が追いかけてきた。

その行先には小さな洞窟が口を開けて待っていた。


「まさか、あそこに入るとか言わないよね…エリン。」

「その、まさかだよ」


 洞窟に入ると、鼻を突くような冷たい空気に包まれる。


「ラズリ…もっと明るくできない?」

エリンがランタンの小さな光に話しかける。


 ラズリと呼ばれたその光は答えた。

「はー? 無理無理、おなか空いてるの、!」

耳触りな大声が洞窟内を反響し、空腹の主張だけがやけに鮮明になる。


 エリンはじっとりとした瞳でランタンを見つめる。

手を離せば、そのまま”それ”を投げてしまいそうだった。

――理性がなければ、きっと。


 やがて洞窟を抜けると、視界が一気に開ける。

風が鳴き、虫たちの歌声が満ちる空間。

遮るもののない場所に、緑の絨毯と空が広がっていた。


渓谷に差し掛かった時は、日の光が昇り始めていた頃だったが、

いつの間にか光は傾き、空にはうっすらと星々が自己主張し始めていた。


「…きれい」

リリィはそっと腰を下ろす。

エリンも、隣に寄り添うように座る。


「いい…声だね、賑やかで、でも上品で…」


 虫の歌声と眠るのも、悪くない。

エリンはそう判断し、テントを張る。

収納魔法から取り出された布は、

魔術式に従って静かに組み上がった。


 リリィが焚火を起こす。

周囲が明るくなると、虫たちは歌うのをやめる。


 しんとした空間に残ったのは、ふたりの吐息だけ。

風が止むと、世界がぐぐっと近くなる。そんな感覚だった。


 焚火は、パチパチと音を立てる。

いつの間にか、この空間でいちばん大きな音は薪が跳ねる音になっていた。


 ヴェルは焚火のそばで丸くなる。

エリンたちも横になる。

その音は、いつの間にか心地よい子守歌に変わっていく。


 リリィはランタンの光に向かって「おやすみ」とつぶやくと、

それに応えるように、一瞬明るくなり、やがて灯りがゆっくりと落ちる。


ランタンの灯りが消える頃には、

言葉は必要なくなっていた。

夜はちゃんと夜の役目を果たしていた。

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少女達は黒猫と、ランタンで旅をする 黒柑橘柚子 @kuroirononeco

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