少女達は黒猫と、ランタンで旅をする
黒柑橘柚子
第1話 森とパンの匂い
朝の光が、街の輪郭をはっきりさせていった。
歩き出すには、もう十分だった。
森は、湿気を抱え込んだまま止まっている。
空は晴れているのに、風がなくって。
朝の露が逃げ場を失って、陽の光を乱反射していた。
エリンは足を止めずに、空気を吸った。
土の匂いが濃くて、暖かい生気を感じる。
苔むした木々、豊かな腐葉、甘い香りの樹皮。
湿気の奥に、動物の体温が混じる。
この森では命がゆっくり流れている。
「……この森は呼吸をしているな。」
足元を歩く黒猫が、低い声で言った。
ヴェルの尻尾が、地面すれすれをなぞる。
「湿気が多いね。分解が早そう。だから匂いが複雑。」
エリンはそれだけ返した。
説明ではなく、確認に近い言葉だった。
昼に差しかかる頃、森の奥に不釣り合いな建物が現れた。ぽつんと一件、煙突付きの小屋。
――次の瞬間、横から風が走る。
「うおい!!パンのにおいだぞ!!」
リリィが、何のためらいもなく駆け出した。
湿った森の空気を押しのけて、明るい足音が遠ざかっていく。
扉を開けた瞬間、香ばしさと甘さが重なって流れ出た。焼けた麦と、砂糖とは違う丸い甘みの香り。
店の奥では、猫の獣人族が手際よくパンを並べている。耳がぴくりと動き、こちらを見た。
「いらっしゃい。……旅の人。」
声は穏やかだったが、視線が泳ぐ。
カウンターの上に、未完成の生地がいくつも並んでいた。
「いやいや…、甘い風味をつける木の実が丁度切れてね。
森の奥の泉のそばに自生してるんだが、今は手が離せなくて。」
リリィが即座に身を乗り出す。
「私達が行ってきます!」
「……ふむ…即決だな。」
ヴェルは店の隅で丸くなり、欠伸をする。
「悪いが、俺はここで留守番しておく。暖かくていい。」
森の奥にある泉のそばは湿度がさらに増し、
陽の光が水面で笑っていた。
特徴に合う木の実は、確かにあった。
「これかなー?言ってたヤツ…」
リリィが指を伸ばそうとすると。
「――待って。毒かも。」
エリンの声は低かった。
確かめた方がいいよ…とエリンの視線がランタンに向く。
「……ラズリ。甘いもの…欲しくない?」
エリンはランタンの中の光に話しかける。
ランタンの中で、ラズリと呼ばれた光がふわっと揺れた。
「なになに、アタシに何くれるの?」
腹ぺこの妖精はいとも簡単に起こされる。
「そこの木の実。甘いらしいよ。」
猫の獣人が言っていたよ…と指を指すと。
ランタンからふわりと光が出てくる。
光が木の実に触れると、輝きが強くなった。
「……甘い! すごく…なんか、ふわっとするぅ。」
エリンとリリィは見合わせて小さく頷く。
「正解だ」「正解ね」
固まる妖精に向かってエリンが一言。
「…毒味役としては最適。」
「うおい!毒味って後で言うの最低だからね!!」
輝きの強さで反論する妖精をランタンに押し込む。
「…仕方ない、他に方法がなかった。」
((あるでしょ!? あるでしょ普通!!))
戻ると、店主は何度も頭を下げた。
代わりに、夕食用のパンを包んでくれる。
焼き目がまだ温かくて、ふわふわしてる。
泉の近くでテントを張った。
収納魔法から取り出された布は、
魔術式に従って静かに組み上がる。
焚き火が起こされ、ぱちぱちと音を立てる。
パンを分け合い、火のそばで横になる。
湿った森の空気は、いつの間にか熱を帯びている。
エリンは、ランタンの灯りを見下ろした。
ランタンの灯りが消える頃には、
言葉は必要なくなっていた。
夜はちゃんと夜の役目を果たしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます