第3話

 昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉に動き出す。

 椅子を引く音、鞄を持ち上げる音、誰かを呼ぶ声。さっきまで授業を受けていたはずなのに、みんなそれぞれ別の方向へ向かっていく。


 私はいつものように、深宮の教室へ行った。

 特別な理由があるわけじゃない。食堂は混むし、中庭は暑いし、移動するのも正直面倒だ。深宮も、移動には少し手間がかかる。だから、ここで一緒に食べる。それだけの話だ。


 教室に入ると、もう半分くらいの席が空いていた。

 深宮は窓際の席で、弁当箱を机に置いて待っている。私に気づくと、小さく会釈をした。


「昨日はごめんね。」


 席に座りながら、弁当を開けて言う。

「体調、ちょっと悪くなっちゃってさ〜。」


「大丈夫です。」


 深宮はそう言って、視線を弁当に落とした。


「ひとりで寂しくなかった?」


 冗談のつもりで言った。軽くからかうような調子で。

 深宮は少しだけ考えるように間を置いてから、首を横に振った。


「いつも来てくれるって、そういう気持ちはないです。」


 一瞬、意味が分からなかった。

 でも、続きの言葉がすぐに来る。


「居てくれる時は、嬉しいですけど。」


 否定でも肯定でもない。

 掴めそうで掴めない返事だった。


 ここで深く聞くのは、たぶん良くない。

 そう判断して、私は話題を変えた。


「それ、誰が作ってるの?」


 悪気はなかった。ただ、前から気になっていただけだ。

 深宮は一瞬だけ顔を上げた。


「兄です。」


「…へえ。」


 言いながら、なんとなく弁当箱を見てしまった。彩りがよくて、丁寧に詰められている。


「……あんまり見ないでください。」


 静かな声だった。でも、はっきりしていた。

 深宮が、こういうふうに注意するのは珍しい。


「あ、ごめんごめん。」


 慌てて謝る。

 空気が、少しだけ張りつめた。


「でもさ。」


 つい、口に出てしまう。


「深宮ちゃんって、家族に恵まれてて羨ましいな。」


 兄の話をするときの、深宮の表情。

 それを見て、自然にそう思っただけだった。


 深宮は何も言わなかった。

 理解しているようにも見えたし、そうでないようにも見えた。


「今度、遊びに行ってもいい?」


 場を和らげたくて、聞いた。

 深宮は少し困ったように笑う。


「聞かないと、分からないです。」


「そっか。」


 その言葉で、兄という存在の大きさを改めて感じた。


 チャイムが鳴る。

 昼休みが終わる合図だ。


「じゃあ、またね。」


 私は席を立つ。

 深宮はそのまま教室に残る。


 廊下に出ると、さっきまでの静けさが嘘みたいに、音が戻ってきた。


 私は三年生で、深宮は二年生だ。

 別学年の転校生なんて、普通はいちいち気に留めない。

 でも、彼女は目立っていた。身体のこともあるし、容姿も、すれ違うたびに視線を引いてしまうものがあった。


 最初は、それだけだった。

 存在を認識している、という程度。


 ちゃんと話したのは、下校口近くの自販機だった。

 深宮がひとりで立っていて、何かを見上げているのが見えた。


「何か欲しいものある?」


 届かないんだろうと思って、声をかけた。

 それが、きっかけだった。


 親切だったと思う。

 間違ってはいないはずだ。


 でも今でも、ときどき考える。

 あのとき、私はちゃんと距離を測れていただろうか。


 深宮の隣に座るのは、楽だ。

 静かで、落ち着いていて、何も求められない。


 ずっと、この昼休みが続けばいいのに。

 そんなことを思いながら、私は自分の教室へ戻った。

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