第2話

 今、私はベッドにいる。


 部屋の電気は消してあって、天井の端に取り付けた小さな常夜灯だけが、ぼんやりと壁を照らしている。カーテンの隙間から、昼間の熱をまだ含んだ夜気が入り込んでくる。窓の外では、昼間ほど元気ではない蝉が、思い出したように鳴いていた。


 ベッドに横になるまでに、少し時間がかかった。

 車椅子から移る動作は慣れているはずなのに、今日はうまくいかなかった。体が重いわけではない。ただ、手足の順番を間違えると、途端に不安定になる。そういう日が、たまにある。


 今日も、迷惑をかけてしまった。


 帰宅してから、兄は当たり前のように動いていた。

 冷たいお茶を出し、部屋までの動線をさりげなく片付ける。私が何かを頼む前に、必要そうなものが置かれていく。タオル、充電器、夕飯の時間を少し遅らせるという判断。


 「大丈夫?」

 そう聞かれて、「うん」と答える。

 それで会話は終わる。


 兄は、私ができないことを数えない。

 代わりに、できるようになるまでの時間を、最初から自分の予定に組み込んでいるみたいだった。


 それが、辛い。


 私は、立てないわけじゃない。

 歩けないわけでもない。神経の問題で、力の入れ方や感覚がうまく噛み合わないだけだ。手すりや杖があれば、時間をかければ、今より自分でできることは増えるだろう。医者にも、リハビリを続ければ改善の余地はあると言われている。


 分かっている。

 分かっているから、なおさら考えてしまう。


 兄がしてくれていることは、本当は、私が時間をかければ自分でできることかもしれない。

 時間をかければ。

 失敗しても、やり直せば。


 でも、その「時間」を、兄は黙って差し出す。

 私がそれを受け取ることを、疑いもしない。



 両親は、県外に住んでいる。

 仕事の都合で離れて暮らすことになったとき、私はまだ中学生だった。高校進学の話が出たとき、全日制に通うことを許してくれたのは、兄のサポートがあるなら、という条件付きだった。


 連絡は、今もまめにくれる。

 体調はどうか、学校はどうか、無理はしていないか。短い文章ばかりだけれど、そこに心配が含まれているのは分かる。


 でも、最近は電話に出る時間が減った。

 声を聞くと、説明しなければならない気がするからだ。私は元気です、と。ちゃんとやれています、と。


 辛い。


 悩んでも、解決できることは少ない。

 それは、もう知っている。努力すればどうにかなることと、そうでないことの区別くらい、ついているつもりだ。


 それでも、夜になると考えてしまう。

 毎晩、同じところをぐるぐる回るみたいに。


 私がここにいることで、誰かの時間が削れている。

 兄の生活は、私の都合に合わせて形を変えている。もし私がいなかったら、もっと自由だったのではないか。もっと別の選択ができたのではないか。


 そう考えるのは、失礼だと分かっている。

 兄はそんなふうに思っていない。たぶん、きっと。


 でも、考えることをやめられない。

 やめたくもない。


 スマホが震えた。

 画面を見ると、短いメッセージが届いている。「深宮ちゃん、今日はごめんね。大丈夫?」


 返信欄に指を置いて、少し迷う。

 「平気です。」と打って、消す。

 「気にしないでください。」と打って、また消す。


 結局、言葉は何も送らないまま、スタンプだけ返して画面を伏せた。


 今、私にできることは、なんだろう。


 すぐに答えは出ない。

 出ないことも、分かっている。


 ベッドの横の壁に、手を伸ばす。

 立ち上がるための手すりに、指先が触れる。力を入れれば、きっと少しは体を起こせる。でも、今日はやめておく。



 考えるだけで、今日は終わりにする。

 それが、今の私にできる、唯一のことだった。

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