終わりまで。

濃紅

1部

第1話

 校門の前に立つと、真夏の匂いがする。

照り返しで白くなったアスファルトと、土埃の混じった空気。まだ午後の早い時間なのに、息を吸うだけで喉の奥が乾く感じがあった。


 腕にはペットボトルを二本。一本は凍らせてきた水で、もう一本は常温のままにしてある。どちらを先に渡すかは、そのときの妹の顔を見て決める。日傘も持ってきたが、今は畳んだまま地面に影だけを落としていた。


 校舎の中から、ざわざわと音が溢れ出してくる。授業が終わったらしい。

 門が開き、生徒たちが一斉に外へ流れ出てくる。制服の袖をまくった生徒。二人並んでスマホを覗き込んでいるカップル。部活のバッグを背負った集団が、声を重ねながら通り過ぎていく。


 楽しそうだとか、うるさいとか、そういう感想は浮かばなかった。ただ、人の数が多いなと思う。校門の前が一時的に狭くなる。影が増えて、また減っていく。


 日傘の柄を持ち替えながら、校舎の奥を眺める。

 まだ、来ない。


 しばらくすると、流れの中にひときわ低い位置の影が混じった。人の波が自然と割れ、その中央を、ゆっくりと進んでくる。


 車椅子に乗った妹だった。


 見つけた瞬間、「いた」と思った。それ以上でも以下でもない。

 妹は人混みを抜けると、こちらを見て小さく手を振る。いつもと同じ動きだった。



 妹の前に回り、ブレーキを確認する。タイヤに異常はない。座面もずれていない。

 顔色を見てから、聞いた。


「……今日は、あの子は?」


 妹は一瞬だけ考える仕草をしてから答える。


「熱中症になっちゃったみたい。早退したって聞いた。」


「…それは心配だな。」


 それだけで会話は終わる。理由を掘り下げることも、心配を強めることもない。妹もそれ以上は言わなかった。


 代わりに、少し明るい声で続ける。


「今日もお弁当、ありがとう。好きなのしかなかった。」


「残されても嬉しくないからな。」


「合理的。」


 短い言葉を置いて、妹は笑う。

 その笑顔を見て、冷凍してきたほうの水を渡した。妹は受け取って、額に当てる。


「冷た。」


「…そろそろ帰ろう。」


 日傘を開き、妹の上に差す。自分は半分だけ影に入る。

 車椅子の後ろに回り、グリップを握った。少しだけ汗で滑りやすい。


 校門を離れると、人の声はすぐに遠ざかった。

 通学路を外れた細い道に入ると、音は蝉の鳴き声と、車椅子の小さな振動音だけになる。


「今日は体育なかったの?」


「皆は水泳してた。」


「まぁ、夏だしな。」


「見てるだけでも暑かったよ。」


 どうでもいい会話が、途切れ途切れに続く。

 今日の授業、クラスで流行っているらしいゲーム、自販機の新しい飲み物。どれも、聞けば分かるし、聞かなくても困らない話だ。


 妹は時々、こちらを振り返って何か言おうとするが、結局「……ううん。」と首を振る。それが何回か繰り返される。


 学校から家までは、少し距離がある。電車やバスを使わずに済む場所を借りているから、こうして毎回押して帰ることになる。

 舗装の継ぎ目を越えるたび、車椅子が小さく揺れる。そのたびに、手に伝わる重さを確認する。




「ねえ。」


 妹が言った。


「…ん?」


「明日も、来られる?」


 質問は軽い。天気の話と同じ調子だ。

 少し考えてから答える。


「多分な。」


「そっか。」


 それで満足したように、妹は前を向いた。

 蝉の声が一段と大きくなる。アスファルトの上で、日傘の影が揺れる。


 毎日ではないけれど、こうした送り迎えが日課だ。

 そう思っているうちは、たぶん問題はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る