第一章 小倉愛須は存在しない
小倉愛須は存在しない(1)
──魔法とマホーは断じて違う。
と小倉さんは言うけれど、僕にはその違いは分からない。
◇ ◇ ◇
この世に小倉
世界中のどこを探したって、彼女ほど奇妙な子はいないと僕は断言できる。
試しに誰か、君の知る一番の変わり者の話を聞かせてほしい。話を聞き終えた僕は、きっぱりと言うだろう。
──小倉さんと比べれば、君の語る人なんてごくフツーの一般人だ。
なにせ小倉さんは、フランス人形みたいな美少女のくせに、ひどく引きこもりで、人前に姿を決して見せない。文学、哲学、考古学、言語学、医学、数学、生物学、天文学、あらゆる学問に博識だけれど、当たり前の常識を知らない。たとえば目玉焼きのことを、動物の目玉を焼いて作った料理だと思っている。
預言者みたいに未来をピタリと言い当てることができるし、マジシャンみたいに一瞬で移動することもできる。リニア新幹線よりも早く東京と大阪間を移動できる。
僕と同じ中学に通っているけれど、生徒名簿に記録はない。それどころか、住民票にすら記録されていないし、なんなら僕は、一度も彼女の顔を見たことがない(だから容姿がフランス人形というのは、僕の勝手な想像だ)。
ちょっと待ってほしい、僕は妄想を語ってるんじゃない。
これは本当の話なんだ。事実、僕は彼女と話すことだってできる。
たとえば、夕焼けの映える放課後の教室。部活動する生徒たちの掛け声を聞きながら、ひとり窓の外を眺める。帰宅する生徒の数が、九人、十人……十三まで数える。すると背後に存在を感じる。僕は決して後ろを振り返らない。しかし彼女は間違いなくそこにいる。
「猫ふんじゃった、猫ふんじゃった」
小倉さんは歌っていた。誰もが一度は耳にしたことのある曲。その平坦な口調は、歌ではなく詩の朗読みたいだと僕は思った。
「猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、猫ふんずけちゃったら、死んじゃった。おしまい」
「…………」
歌詞は小倉さんのアレンジだった。
「残酷な歌だね。猫が嫌いなの?」
「猫は一番好きな動物」
「そうなんだ。でも、死んだら可哀想だよね」
「猫は人より小さい。人の体重で踏めば圧死する」
「でも子供の体重なら死なないと思う。踏んだのは子供じゃないかな」
「どうして?」
「なんとなく、歌の印象から、きっと子供が踏んずけたんだって想像したんだ」
しばらく間があって、ややもすると小倉さんは答えた。
「その主張は正しい。水瀬には想像力がある。私には想像できなかった。確かに子供の体重なら死にはしない。この歌詞は間違いだった」
それからまた、小倉さんは続きを歌い始めた。
「猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、猫ふんずけちゃったら、生きていた。猫ひっかいた、人カッとした、人カッとしたら、戦争だ」
小倉さんは始終こんな調子だ。何を考えているのかサッパリ分からない。
僕と小倉さんの出会いは三年前、小学五年生の頃まで遡る。
◇ ◇ ◇
あるとき授業で、将来の夢を発表する機会があった。
クラスメイトたちは次々と夢を語った。サッカー選手、お医者さん、ゲーム選手、学者、教師、保育士、動画配信者、料理人、パティシエール、プログラマー、歌い手、漫画家。ただの会社員だと控えめに答える子もいた。
僕は彼らの発表を聞いて、なんだか心の底からムカッ腹が立ってきた。そして自分の番がやってきて、「水瀬祐樹君」と先生に呼ばれて立ち上がると、僕はクラスメイトを一通り見回し、間を置いてから堂々と言い放った。
「僕の将来の夢は──魔法使いです」
シンと教室が静まり返った。
先生は困惑した顔で言った。「えっと、魔法……?」
「だから、魔法使いです!」
どこかでプッと噴き出す声が聞こえた。誰かが「漫画の読みすぎだろ」と言った。それから失笑があった。それは冗談に対するウケ笑いではなくて、嘲笑だった。僕は頭に血が上って言い返した。
「みんな現実的なことばかり言って、本当にそれが夢なの? 嘘だ、みんな嘘ついてばかりじゃないか! 僕は嘘じゃない、本当に心の底からなりたい夢を言ったんだ。魔法使いになったら、笑ったやつ全員、魔法で消し炭にしてやる!」
もちろん僕は孤立した。
その場は言い切った満足もあった。しかし、すぐに後悔が押し寄せた。僕はクラスでますます孤立するようになった。しかし時がたつほど、僕は意地になっていた。
ある帰り道、僕は公園のベンチでウトウトしながら鳩を数えていた。特に意味はない、ただの時間潰しだ。体育の授業であぶれたとき、僕はよく物を数えた。なんでもいい。その日はたまたま鳩だった。五匹、六匹……十三まで数えたとき、背後に気配を感じた。
「その方法は効率が悪い」
女の子の声だった。氷のように澄んだ声。最初、僕に向けて言ったと気付かなかった。だからしばらく黙った。しかし周囲には僕以外に誰もいない。僕は遅れて返事した。
「あの、僕になにか?」
「その練習方法は、効率が悪い」
「練習って?」
「一の認識は簡単。二の認識も簡単。一と二の概念は脳が無意識に区別するから、視界に入った瞬間に識別可能。四は二がふたつあると考えると簡単。だから五を練習する。数えてはいけない。視界の中にある五を瞬時に認識する。それができるようになったら六、次に七。徐々に数をあげていって、十三を認識できるようにする」
「ごめん、それって何の練習なの?」
返事と同時に僕は振り向いた。しかし、後ろのベンチには誰の姿もない。
ただ、ベンチの上に長方形の袋が残されていた。それは
それ以来、僕は彼女のことを勝手に、小倉愛須という名前で呼んでいる。
◇ ◇ ◇
登校中、僕は満員電車にもみくちゃにされながら、外の電柱を眺めていた。つい癖でその数を数えると、視界に入った電柱はちょうど十三個あった。
「私の星座は、へびつかい座」
その瞬間、いつの間にか背後にいた小倉さんが言った。
「十三番目の星座だね。でも今の主流は、十二星座までなんだよ」
「水瀬は星座がある人間? ない人間?」
「星座は誰にでもあるよ。僕は双子座」
すると小倉さんは抑揚のない口調で、淡々と次のように言った。
「今日の星座占い。もっとも運勢が悪いのは……ガガーン、双子座のあなた。今日は、運命の女神様からペッと唾を吐きかけられたような、最悪の一日になるでしょう。でも大丈夫。そんなあなたを救うラッキーアイテムは、社長のネクタイ」
女神様に唾を吐きかけられるような一日とは、どんな最悪な一日だろう。僕には想像がつかない。小倉さんに尋ねてみようと思い、意識を背中側に向けると、既に気配はなかった。彼女は量子力学的存在なのだ。
「すみません、この中に社長の方はいませんか! 大企業でもベンチャーでも、なんでもいいんです。個人経営でも構いません!」
電車内の人たちが、ぎょっとした顔で僕の方を振り向いた。
バカバカしいと思うかもしれないけれど、僕は本気だ。なにせ、あの小倉さんが言うのだから、本当にとんでもない一日になるに違いない。ラッキーアイテムの確保は必須だった。
「社長の方ですか?」恰幅のいい男性に尋ねた。
「いや、私は係長だ」
「社長の方ですか?」メガネの男性に尋ねた。
「課長です」
「間違いない、あなた社長ですね」
「私は部長だ」
「あ、あなた。社長っぽいですね。バームで固めた白髪交じりの髪、物々しげな佇まい、貫禄ある頬のしわ。社長の方ですね、そうですね?」
僕は隅にいた男性のネクタイを掴んで言った。
「お、落ち着きなさい。私は社長ではない」
「社長じゃなかったらなんですか、副社長ですか?」
「事業統括部長だ」
「会社にはいくつ階層があるんですか! なんとか社長になってくださいよ!」
「無茶言うな君、私はもう出世コースから外れたんだ……」
結局、社長はどこにも見つからなかった。
その日はまさに、運命の女神様に唾を吐きかけられたような一日になった。
駅から出たところで、痴漢と間違えられて警察沙汰になった。学校までの道すがら、複数の男子小学生に鼻くそをなすりつけられた。よく考えたら僕は、学校の鞄を持ってくるのを忘れていた(だから宿題も忘れた)。給食係がすべってぶちまけた給食を、頭からかぶった。
そして今、僕は見知らぬ女子生徒に呼び出されて屋上に立っている。
「ごめんなさい! 私、水瀬センパイとは付き合えません」
見知らぬ女子生徒は、僕に頭を下げて言った。
「うん、うん。分かったよ。でも僕は君を知らないし、君に告白したこともないよ」
「分かってます。でも、もし水瀬センパイに告白されたらって思うと、私……気が気じゃなくて……どうしても先に断っておきたかったんです!」
「うん、君の気持ちは分かった。僕は未来永劫、君に告白しないようにするよ」
「できれば、私の半径十メートル以内にも入らないでください」
「分かった、君の半径十メートル以内に入らないよう気を付けるよ」
女子生徒は晴れやかな笑顔で「ありがとうございます」と言って立ち去った。
こうして僕は、告白してもない女子から振られるという稀有な体験を得た。
こんな具合に、小倉さんの忠告に従わなければ、とんでもないことが起こるのだ。
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虚構、或いは非現実的・実存マホー使い 麦野歩 @muginoaym
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