第2話

巨大魔獣ベヒモスの消滅と共に、戦場を覆っていた黒霧は嘘のように晴れ渡った。  崩壊した外壁から見下ろす街「ゼノス」には、朝日が差し込んでいる。本来なら、奇跡的な勝利に沸き立ち、互いの無事を抱き合って喜ぶべき瞬間だった。


「……ハル。本当に、君がやったのか?」


 聖騎士団長が、血の混じった唾を吐き捨てながら歩み寄る。その瞳には、救世主への感謝よりも先に、人知を超えた怪物を見るような畏怖が混じっていた。  ハルは、折れかけた鉄の剣を眺めながら、所在なげに首を傾げた。


「みたいですね。……でも、少しだけ、変な感じなんです」 「変な感じ、だと?」 「はい。勝ったはずなのに……なんだか、自分の中のすごく大事なものが、ごっそり抜け落ちたみたいな」


 ハルは胸のあたりをそっと押さえる。  そこには、つい先ほどまで確かにあったはずの「温かさ」がない。風の吹き抜ける洞窟のような、冷たい空洞があるだけだった。


「……まあ、いいです。それより、街の皆を助けないと」


 ハルは無理やり口角を上げ、団長の肩を貸して歩き出した。  街へ戻る道すがら、生き残った住民たちが次々と姿を現す。彼らはハルの姿を見るなり、地を這うようにして跪き、涙を流して感謝を捧げた。 「救世主様!」「ゼノスの恩人だ!」  その称賛の声は、ハルの耳を素通りしていく。  今の彼にとって、その言葉は宛先のない手紙のように、どこにも届かない空虚な響きでしかなかった。


「ハル!!」


 街の広場まで辿り着いた時、人混みを割って、一人の少女が飛び出してきた。  ボロボロのワンピースを揺らし、泥に汚れながらも、必死にこちらへ駆けてくる。その瞳には、今にも溢れそうな涙が溜まっていた。


 アリアだ。  ハルの幼馴染であり、彼がこの戦いに身を投じる最大の理由であったはずの少女。


「よかった……無事だったんだね、ハル! 信じてた、絶対に帰ってきてくれるって!」


 アリアはハルの胸に飛び込み、その温もりを確かめるように強く抱きしめた。  だが、ハルの体は一瞬、拒絶するように硬直した。


「……あ、うん。ただいま」


 ハルの声は、どこか余所余所しい。  アリアは不思議そうに顔を上げ、ハルの瞳を覗き込んだ。


「どうしたの? どこか怪我してる? ……ねぇ、約束、覚えてるよね? 無事に帰ってきたら、一緒におばあちゃんのシチュー、食べようって」


 アリアの言葉に、周囲の空気がわずかに和らぐ。  しかし、ハルだけは――凍り付いたように動かなかった。


「……シチュー?」


 ハルは記憶の底を必死に探る。  だが、いくら手を伸ばしても、そこにあるのは霧に包まれたような真っ白な空白だけだった。  自分が誰のために戦ったのか。戦いの直前に何を思っていたのか。  その核心部分が、今の彼には一欠片も思い出せない。


「ごめん……アリア。俺、なんだか少し、疲れちゃったみたいで。その約束、後でもいいかな」


 ハルは、精一杯の「嘘」をついて笑った。  記憶はない。だが、この少女が自分にとって特別な存在であることだけは、胸の奥の、痛むような感覚が教えていた。  アリアは一瞬、悲しげに目を見開いたが、すぐに無理な笑顔を作って頷いた。


「……そっか。そうだよね。あんな大きな怪物と戦ったんだもん。ゆっくり休んで。シチューは、いつでも作れるから」


 アリアの手が、ハルの腕から力なく離れる。  その瞬間、ハルは、自分が救ったはずの世界が、自分の手から少しずつ零れ落ちていくような恐怖を感じていた。


 一方、その頃。  ゼノスから遠く離れた、永久に太陽の昇らない地――「深淵の座」。  そこでは、七つの巨大な椅子に、禍々しい影たちが腰を下ろしていた。


『ベヒモスが墜ちたか。……たかだか、人間一人の手によって』


 冷ややかな声が、暗闇を震わせる。


『面白い。あれはただの聖騎士ではない。……己の魂を薪(まき)にして燃やす、呪われた輝きだ』 『放っておけば、我らの計画の障壁となろう。……【七大深淵】を一人、差し向けるか』


 影の一つが立ち上がる。  その瞬間、周囲の大気が凍り付き、絶望が結晶となって降り注いだ。


 ハルが救ったのは、あくまで最初の一歩に過ぎない。  彼が世界を完全に救い切るまでに、あとどれだけの「昨日」を燃やさなければならないのか。  それを知る者は、まだ誰もいなかった。

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