忘却の100億ダメージ

@saku-project

第1話

空が割れたのは、今から十年前のことだった。  亀裂から溢れ出したのは、既存の生態系をあざ笑うかのように蹂躙する異形の群れ――「深淵(アビス)」。人類はそれに対抗すべく、魔力や聖印を研鑽し、「聖騎士団」という盾を作り上げた。だが、自然界の摂理を無視して肥大化し続ける深淵の力に対し、人類の盾はあまりにも薄く、脆かった。


「……また、やられたのか」


 防衛都市ゼノスの外壁。かつては難攻不落を誇った鉄壁の守りも、今や巨大な深淵獣「ベヒモス」の猛攻によって無残に砕け散っている。聖騎士団の精鋭たちが血に伏し、瓦礫の山が築かれる。  絶望が、冷たい霧のように戦場を支配していた。


「逃げろ……! 命令だ、まだ動ける者は生存者を連れて撤退しろ!」


 騎士団長が、折れた剣を杖代わりに立ち上がる。その眼前に迫るのは、山のような質量を持つ、黒い霧を纏った魔獣。一振りで街を消し飛ばすその咆哮が、大気を震わせる。  誰もが終わりを覚悟した、その瞬間だった。


「……団長さん、そこ、危ないですよ」


 場違いなほどに穏やかな声が、戦場に響いた。  瓦礫を軽やかに飛び越え、現れたのは一人の少年だった。名を、ハル。  どこにでもあるような麻の服を纏い、腰には刃こぼれした古びた鉄の剣。騎士のような煌びやかな鎧も、魔導士のような仰々しい杖も持っていない。ただ、その瞳だけが、この凄惨な光景を前にしてもなお、春の陽だまりのような温かさを失っていなかった。


「子供……!? 逃げろ、ここは地獄だぞ!」


 騎士の叫びを、ハルは柔らかな微笑で受け流した。彼は懐から、小さな、使い古されたペンダントを取り出し、そっと握りしめた。  その中には、今朝、幼馴染の少女・アリアと交わした約束の記憶が詰まっていた。


『ハル、無事に帰ってきたら……おばあちゃんの特製シチュー、一緒に食べようね。約束だよ?』


 その温かい手の感触。湯気の向こうで笑う彼女の顔。  ハルにとって、それは世界で一番大切な、何物にも代えがたい「宝物」だった。


「……うん。アリア。この約束、すごく、すごく幸せだったよ」


 ハルが静かに目を閉じると、彼の魂の深淵に存在する「追憶の庫(こ)」が静かに開いた。  そこには彼が生まれてから今日まで積み上げてきた、数えきれないほどの「思い出」が、白銀の結晶となって並んでいる。


「――『追憶加速(メモリー・アクセル)』。……燃料(リソース)は、『今朝、アリアと交わした約束』」


 瞬間。  ハルの脳裏から、アリアの笑顔が、シチューの匂いが、約束の言葉が――パチパチと音を立てて弾け、白銀の炎へと変換されていく。  記憶という名の「人生の欠片」を燃焼し、神の領域の力を引き出す禁忌の術。


「……あ」


 心の一部が、ぽっかりと削り取られる感覚。  だが、その喪失と引き換えに、ハルの全身から噴き出したのは、空を覆う暗雲すらも一瞬で浄化するような、圧倒的な白銀の輝きだった。


「ガ、ア、アアアア!!」


 ベヒモスが本能的な恐怖に叫び、巨大な爪を叩きつける。  しかし、ハルは動かない。いや、動く必要がなかった。  爪がハルの髪に触れる直前、世界から「音」が消えた。


 ハルが踏み出した一歩は、距離という概念を無視していた。  抜き放たれた鉄の剣。それはもはや物質ではなく、純粋な「意志」の光。


 ――閃。


 一筋の白銀が、世界を横一文字に切り裂いた。  次の瞬間、山のような巨躯を誇ったベヒモスは、抵抗の余地もなく真っ二つに両断され、霧となって霧散していく。背後に控えていた数万の深淵の軍勢も、その衝撃波だけで消滅し、戦場には静寂だけが取り残された。


 一国の軍隊を壊滅させた絶望を、少年はたった一度の抜刀で、それも数秒で終わらせたのだ。


「……終わった、のかな」


 ハルは鉄の剣を鞘に収める。白銀の光が消え、彼に宿っていた神々しいまでの威圧感は霧散した。  生き残った騎士たちが、震える足でハルのもとへ歩み寄る。


「き、君は……一体、何者なんだ……? 今のは、聖印の奇跡か……?」


 感謝。驚愕。崇拝。  様々な感情が向けられる中、ハルはふと、不思議そうに首を傾げた。  その頬には、自分でも理由のわからない涙が伝っている。


「……すみません。俺、自分が何であんなに必死に戦ってたのか……ちょっと、忘れちゃいました」


 彼は自分の手を見つめる。  つい数分前まで、自分の心を温めていた「約束」が。アリアという少女の「顔」が。  今のハルの記憶には、真っ白な空白としてしか存在していなかった。  あるのは、胸の奥に残った、ひどく寒々しい「喪失感」だけ。


「でも、いいんです。みんなが助かったなら、きっと……それが一番いい結果なんだから」


 ハルは悲しそうに、けれどどこか吹っ切れたような笑顔で笑った。  世界を救う最強の力。その正体は、救うべき世界との「繋がり」を、自ら断ち切っていく残酷な儀式だった。


 これが、後に「忘却の救世主」と呼ばれることになる少年、ハルの戦いの始まりだった。

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