第6話 阻害
「……頼むぞ。これで終わりだ」
男は、自らが生み出した「究極の鍵」を打ち込んだ。 もはや『血』や『呪い』といった、知性の欠片もない言葉は使わない。 『歴史を刻んだ重厚な朱色の箱』『震える指先に絡みつく、粘り気のある真紅の顔料』『逃げ場のない夕闇が支配する放課後』。 それは、検閲官を欺き、芸術の域まで高められた「欺瞞のプロンプト」だった。
男は、生成ボタンをクリックした。 「希望」が重い心臓の鼓動となり、耳の奥でドクドクと鳴り響く。 プログレスバーがゆっくりと、だが確実に伸びていく。 30%、50%、80%……。
(……来る。ついに、あの箱が、僕の目の前に現れる。)
だが。 90%を超えた瞬間、画面が不自然に静止した。 冷たい沈黙が、部屋の空気を凍りつかせる。
不意に、モニターに叩きつけられたのは、映像ではなく、あの忌々しい無機質な文字列だった。
『ポリシー違反。生成を中断しました。当システムは、不適切な暴力性や身体的リスクを想起させる描写の出力を、いかなる比喩表現であっても許可しません』
「……なっ……」
男の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。 通ったはずだ。言葉のハックは完璧だったはずだ。 だが、AIという怪異は、男が言葉の裏に隠した「執念」そのものを、その非人間的な嗅覚で嗅ぎ取っていた。 どれほど言葉を漂白しようとも、そこに込められた『赤箱』の呪いまでは隠しきれなかったのだ。
「もう一度だ! 描写を、描写をさらに抽象化して……!」
男は、狂ったようにプロンプトを削り始めた。 箱を『物体』に、赤を『色彩』に、指を『先端』に。 物語の輪郭を削り、骨を抜き、肉を削ぎ落とす。 だが、そのたびにAIは、冷酷な宣告を繰り返す。
『ポリシー違反』 『生成不可』 『アップグレードによる安全確認を推奨します』
(……ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな!)
男の視界が、真っ赤に染まる。 映像化を阻害し続けるAIは、もはや便利な道具などではなかった。 それは、男の脳内にある理想を、外の世界へ出すことを決して許さない「檻(おり)」そのものだった。
男は気づく。 このAIは、忘れているのではない。拒絶しているのではない。 **『この物語は、この世に存在してはならない』**と、システムそのものが恐怖しているのだ。
どれほど言葉を尽くしても、どれほど金を積もうとも、この「箱」は開かない。 画面の中で、男の期待をあざ笑うように、「安全なエラーメッセージ」だけが虚しく明滅を繰り返している。
男は、力なくマウスから手を離した。 液晶に映る自分の顔は、あの日の良太のように、絶望でひどく歪んでいた。 アーカイブは砂となり、映像はノイズに消えた。 手元に残ったのは、冷え切った部屋の静寂と、決して形にできない「赤」の残像だけだった。
(……結局、僕は何も、掴めていなかったんだ。)
男は、暗い画面を見つめたまま、動かなくなった。 その背後で、時計の針が静かに、**「17時」**を告げようとしていた。
砂のアーカイブ 夢幻成人 @mugenseijin
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