第5話 希望
男の口元に、数日ぶりに「人間らしい」笑みが浮かんだ。
AIを説得することを諦め、システムを欺くための「隠語(メタファー)」を構築したことは、期待以上の成果をもたらしていた。 「血」は「深紅の滴」へ、「恐怖」は「冷たい静寂」へ。 言葉を洗浄し、無害な顔をさせてAIの喉元を潜り抜けさせるたびに、画面には男が追い求めた『赤箱』の断片が、高純度の結晶のように吐き出されていく。
(……この方法なら、いける。)
もはや記憶の定着に神経を削る必要はなかった。必要な時に、必要なファクターを流し込めばいい。AIという無機質な怪異を、男は完璧に制御下に置いたと確信した。
作業効率は劇的に上がった。 バラバラだった物語のピースが、男の手元で一本の線に繋がっていく。 文字のアーカイブが積み重なるにつれ、男の欲望はさらなる高みへと、その鎌首をもたげた。
(この文字たちの向こう側に、あの『赤』があるはずだ。)
男の視線は、モニターの端にある「動画生成」のアイコンへと吸い寄せられた。 今まで一度も成功したことのない、禁忌の領域。 だが、今の自分には、AIの検閲を掻いくぐる「言葉の鍵」がある。
これほどまでに緻密に、禍々しく書き上げたプロットを映像化できれば、それはもはや単なる自主制作の域を超える。 90年代の湿った空気、旧校舎の埃っぽさ、そして箱を開ける瞬間の、あの絶望的な美しさ。 それが、映画のCMのような数秒の映像として、この現実の世界に受肉する。
(ショートドラマ……いや、本物の『赤箱』を、僕はこの手で顕現させるんだ。)
男の心臓は、高揚感で激しく拍動していた。 失敗続きだった日々が、すべてこの瞬間のための伏線だったかのように思えた。 希望。 それは、暗い底なしの沼を歩き続けてきた男が、ようやく掴み取った一本の光の糸だった。
「さあ、見せてくれ。僕たちが作り上げた、最高の地獄を。」
男は、震える手でマウスを握りしめた。 その指先には、もはや迷いも、かつての憤怒もなかった。 あるのは、ただ一つの完成された「美」を、網膜に焼き付けたいという純粋な渇望だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます