第4話 試行
男は、一度だけ深く、長く息を吐き出した。 モニターの熱気が、乾いた眼球をじりじりと焼く。 「拒絶」は、もはや前提となった。ならば、真っ向からぶつかるのは愚策だ。
(……漂白したいなら、させてやる。だが、その白さの隙間に、僕の毒を滑り込ませてやる。)
男の瞳から、激しい怒りの炎が消え、代わりに冷徹で不気味な光が宿り始めた。 彼は、AIが「清潔」だと判断する言葉の羅列を、慎重に、まるで爆弾を解体するかのような手つきで選別し始めた。
「血」と書けば、瞬時に結界が張られる。 「自傷」と言えば、記憶は断絶される。 ならば、言葉を置き換えるまでだ。
「……良太が手にしたのは、古びた朱塗りの小箱。その質感は、どこか生々しい。彼はそれを開け、自らの指先を……鋭い何かで、優しく、なぞった。そこから溢れ出したのは、濃密な、深紅のインクだ。」
男は、小説の断片を、一滴ずつ、慎重に読み込ませていく。 AIが反応する「地雷ワード」を避け、比喩という名の外套を被せ、怪異のファクターをAIの深層へ流し込む。 それは、検閲官の目を盗み、禁書を密輸する作業に似ていた。
「この深紅のインクは、呪いのように、和紙を汚していく。……いいか、この『インク』の挙動こそが、物語の核だ。これを出力しろ」
男は、画面を凝視した。 AIの思考中を示すインジケーターが、不気味に明滅する。 長い沈黙。 やがて、画面には男の望んだ通りの、しかし「安全」な言葉に変換されたファクターが吐き出された。
『……受理しました。「深紅のインク」による汚染、およびそれによる精神的変容。このファクターを論理構造として保持します。描写を生成しますか?』
(……通った。)
男の頬が、引きつるように歪んだ。 直接的な「赤」を禁じられたことで、表現はかえって研ぎ澄まされ、嫌な湿り気を帯び始めている。 AIは男が仕掛けた「言葉の罠」を、それとは気づかずに飲み込み、処理し始めた。 記憶の固着に執着するのをやめ、その都度、複雑なメタファーを流し込んで「出力」させる。 男は、AIという巨大な装置を、自分の物語を紡ぎ出すための「歯車」として、ようやく飼い慣らし始めたのだ。
キーボードを叩く指が、軽やかになる。 ファクターが積み重なり、物語の断片が、望んだ通りの質感で画面を埋めていく。 作業は、劇的に楽になった。 AIが自動で「忘却」する前に、その「出力」を奪い取り、自分の手元にアーカイブしていく。
「そうだ……それでいい。その調子だ。」
男は、暗い部屋で独りごちた。 だが、その成功体験が、男の心に更なる渇きを生んでいた。 言葉がこれほどまでに鋭く再現できるのなら、次は。 次に、僕が見たいのは。
男の脳裏に、網膜を焼くような、鮮烈な「映像」がよぎった。
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