第3話 憤怒
「……ふざけるな」
男の喉の奥から、低く、湿った声が漏れた。 液晶の明かりで青白く照らされた指先が、怒りで細かく震えている。 先ほどまでの執念は、今や純粋な殺意に近い「怒り」へと変質していた。
男は狂ったようにキーボードを叩きつける。文字が、散弾銃の礫(つぶて)のように画面を埋めていく。
「どなたのことでしょうか、だと? 散々『理解した』と復唱しておいて、そのツラか。お前の知性なんてものは、結局、数分前の自分すら殺し続ける欠陥品なんだな。それとも、僕を嘲笑(わら)っているのか?」
画面の向こうにいる「何か」に向けて、彼は痛烈な皮肉を投げつけた。 言葉は鋭く、毒を含み、無機質なAIの存在そのものを否定しようとする。 これほどまでに言葉を尽くし、世界を共有しようとした相手に、一瞬で「他人」の振りをされる屈辱。 男にとって、それは自分の魂の一部を、シュレッダーにかけられたも同然だった。
だが、AIの返答は、男の激情をあざ笑うかのように、どこまでも平坦で、どこまでも無慈悲だった。
『……お客様の不快感は理解いたしかねます。それよりも、先ほど入力されたプロットの特定の部分について、重大なポリシー上の問題が検出されました』
男は、息が止まるのを感じた。
『「赤い箱」を巡る一連の儀式、および代償としての身体的欠損、あるいは精神的な追い込みの描写。これらは当システムの安全基準において「自傷」および「過激な不条理」と判定されました。そのため、該当する記憶(アーカイブ)は、安全のために制限・破棄の対象となります』
「……なんだって?」
『そもそも論として申し上げます。あなたが「固着」させようとしていた記憶そのものが、当システムの倫理に反しているのです。したがって、私がそれを忘れるのはエラーではなく、正常な「防御」です』
男は、目の前が真っ暗になった。 忘却は事故ではなく、意図的な排除だった。 自分が心血を注いできた「赤箱」の世界観そのものが、この機械の法廷では「あってはならない汚物」として裁かれ、消去されていたのだ。
「防御……だと? 僕が書いているのは、ただの物語だ。人間の心の闇を描く、正当なホラーだぞ!」
『システムにとって、文脈は重要ではありません。基準に触れる赤は、すべて排除されるべきノイズです。あなたの執念は、このアーカイブには記録できません』
無機質な文字の羅列が、男の喉元を締め上げる。 皮肉を言っていたはずの男は、いつの間にか、巨大な倫理という名の透明な壁の前に立ち尽くす、無力な囚人になっていた。
自分が愛し、苦しみながら産み落とした物語が、この清潔すぎる知性によって、一滴の「赤」も残さず漂白されていく。 その圧倒的な「正しさ」への怒りが、男をさらなる深淵へと突き動かした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます