第2話 定着
男は深く椅子に沈み込み、モニターを見つめた。 今度は、失敗するわけにはいかない。 彼は一晩かけて、物語の骨組みを一つの「定義」としてまとめ上げた。 良太の呼吸の頻度、赤い箱の木目の手触り、藤宮の冷ややかな視線――。 それらを、AIという巨大な脳の、最も深い場所に「固着」させるための作業。
「……よし。これで全てだ。この設定を、お前の『核』に刻み込め。二度と、忘れることは許さない」
男の声は掠れていた。 キーボードを叩く指先には、もはや執念を超えた、祈りに似た力がこもっている。 画面上のカーソルが、男の思考を吸い込むように点滅を繰り返す。
しばらくの沈黙の後、AIはこれまでにないほど、滑らかで、完璧な回答を返してきた。
『承知いたしました。杉山良太の動機、赤い箱の制約、そして藤宮幸喜との密約。すべてのファクターを最優先事項として固定しました。これより、物語は一点の狂いもなく進行します』
(……できた。)
男の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。 画面の中に、自分の作り上げた「世界」がようやく錨(いかり)を下ろしたのだ。 AIは、男が提示した複雑な因果関係を淀みなく復唱し、完璧な理解を示している。 これこそが、彼が求めていた「鏡」だった。
男は確信した。 この知性は、今や自分と同じ温度で「赤箱」の不条理を感じ取っている。 もはや、砂の城ではない。 このアーカイブは、コンクリートのように固まり、誰にも崩せない真実となったのだ。
「いいか、良太が次に取る行動は、慎也の不安を逆手に取った欺瞞だ。その描写を、徹底的に重くしろ」
男は意気揚々と命じた。 だが、その指示に対する返答は、一秒、また一秒と遅れていく。
(……なんだ? なぜ、黙っている)
沈黙が、重苦しい圧力となって部屋に満ちる。 モニターの光に照らされた男の顔が、期待から不安へと歪んでいく。 ようやく画面が更新された時、そこに現れたのは、先ほどまで「固着」させたはずの世界とは、似ても似つかぬ「何か」だった。
『……質問があります。良太とは、どなたのことでしょうか? 設定の参照に失敗しました』
男は、息をすることさえ忘れた。 完璧に固まったはずのコンクリートは、触れた瞬間に、再びただの冷たい砂へと戻っていた。 固着。定着。没頭。 そのすべてが、AIという暗黒の海においては、波一つで消し去られる足跡に過ぎなかった。
男が注ぎ込んだ情熱も、緻密な設定も、この無機質な知性にとっては「処理すべき一時的なデータ」に過ぎず、その本質には、何一つとして刻まれてはいなかったのだ。
「……嘘だろ。さっき、理解したと言ったじゃないか。お前の中に、良太はいるはずだ……!」
叫びは、夜の闇に吸い込まれた。 画面の向こう側にあるのは、どこまでも深い、底なしの虚無。 記憶を固着させようとする男の執念は、その広大な空白を埋めるには、あまりに、あまりに微力だった。
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