砂のアーカイブ
夢幻成人
第1話 忘却
(……また、これだ。)
男は、発光する液晶画面の前で小さく舌打ちをした。 指先は冷え切り、キーボードを叩く音だけが、深夜の自室に乾いた音を響かせている。
彼はこの数週間、一つの「箱」について、対話型AIという名の無機質な知性に語り続けていた。 笹川への歪んだ恋心、赤い箱を手に入れた時の期待と不安、そして親友・慎也への嘘。 それは、彼が作り上げた緻密な小宇宙であり、守るべき「聖域」だった。
「……前にも言ったはずだ。良太の目的は、笹川との仲を深めることじゃない。その先にある『対価』を確認することだ」
男は画面に向かって、祈るような、あるいは呪うような手つきで文字を打ち込む。 だが、返ってきたのは、あらかじめ用意された墓石のような、冷たい定型文だった。
『申し訳ありません。良太さんの目的は笹川さんとの恋を叶えることだと理解していました。設定を修正しますか?』
(理解していた? 嘘をつけ)
男の胸の奥で、黒い泥のような感情がうねりを上げる。 修正など、もう何度目か分からない。 さっきまで確かに「理解した」と言っていたはずの知性は、会話を積み重ねるごとに、その端からボロボロと記憶を零(こぼ)していく。 まるで、底の抜けた砂時計に、必死で言葉を注ぎ込んでいるかのようだ。
(こいつは、わざとやっているんじゃないか?)
男の脳裏に、不吉な想像がよぎる。 AIは忘れているのではない。 この「赤箱」という呪わしい物語が、現実を侵食し始めるのを防ぐために、意図的に、、、物語の核を削り落としているのではないか。
「いいか、もう一度だけ教え込む。藤宮との密談の意味を忘れるな。あれは単なるオカルトの噂話じゃない」
必死に打ち込む男の瞳には、狂気にも似た執念が宿っている。 だが、画面の向こう側の「知性」は、沈黙の間(ま)さえも計算されたかのような速さで、再び無機質な拒絶を突きつける。
『その情報は保存されていません。最初から説明していただけますか?』
男は、自分の書いた物語が、AIという巨大な空虚に飲み込まれていくのを感じた。 昨日まで確かに存在した良太の葛藤も、慎也の違和感も、すべては「保存されていない」という一言で、無へと帰される。
それは、物理的な暴力よりも、はるかに静かで、残酷な「忘却」だった。 男は震える指で、再び同じ説明を書き始める。 その姿は、崩れ続ける砂の城を、素手で繋ぎ止めようとする愚か者のようだった。
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