孤独な人間の隙間-間宮響子-
江渡由太郎
孤独な人間の隙間-間宮響子-
深夜二時、間宮響子のスマホの着信音が鳴った。
通話を始めるのだが、何故かコール音の向こうに声があった。女の声だ。
泣いているのではない。抑揚がなく、喉の奥で乾いた空気が擦れる音だけがしていた。
「……先生。私、もう――私じゃないんです」
響子はをスマホの通話をスピーカーへ変え耳を傾けていた。 そして、部屋の灯りを点けなかった。暗闇の方が、嘘をつかれにくい。
「あなたは誰なの?」
「名前……あります。ありますけど……それを、呼ばれると、痛い――」
電話は突然切れた。発信履歴は残っていない。番号不明。だが、切れる寸前に響子は“聞いてしまった”。
――背後で、誰かが息を吸う音を。
その夜の出来事の後、ショートメッセージで住所が送られてきた。
翌日、響子は都内の古い集合住宅を訪れていた。五階建て、築四十年以上。エレベーターは止まり、階段の踊り場には剥がれた張り紙が何枚も重なっている。
問題の部屋は三〇五号室。
管理人は言った。「住人はいますよ。いますけど……誰も、会いたがらない」
チャイムを押すと、すぐに鍵が開いた。
現れた女は三十代半ば。整った顔立ちだが、目の焦点が微妙に合っていない。視線が、常に“相手の少し奥”を見ている。
「間宮――響子先生ですね……」
名前を名乗られて、響子の背筋が微かに強張った。
部屋は異様に整頓されていた。家具の配置、写真立ての角度、カレンダーの破り方――どれも几帳面すぎる。生活感がない。まるで「人が住んでいるという設定」を再現した舞台装置だ。
「あなたが、昨夜電話を?」
女は首を傾げた。
「いいえ。私は電話、しません。……でも、した“ことにされてる”かもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、響子は確信した。
この女の中にいる“何か”は、自分が誰かを理解していない。
女は言った。
「最近、夢を見るんです。夢の中で、私が私を見ている。向こうの私が、こっちを見て笑うんです。……それで、起きると、何かが一つ増えてる」
「何が?」
女は、指を折った。
「爪の形。瞬きの回数。利き手。――声の出し方」
響子の霊視が、じわりと開いた。
女の身体に、影が二重に重なっている。人の形をしていない影。内側から、皮膚を着ている。
「あなたは、いつから“入れ替わり”を感じた?」
「三週間前です。知らない番号から、電話が来ました。出たら……無言で。でも、息が聞こえて」
――あの音だ。
「切ったあと、部屋の鏡を見たら……少し遅れて、私が瞬いたんです」
響子は、低く告げた。
「それは“呼び声”です。霊でも、悪魔でもない。“人になりたがる何か”。孤独な人間の隙間に入り、真似をして、置き換わる」
女は微笑んだ。
その笑みは、作られたものだった。
「じゃあ……もう、手遅れですね」
儀式は行えなかった。
女の中の“それ”は、すでに表層に近すぎた。引き剥がせば、肉体も精神も壊れる。響子にできたのは、結界を張り、進行を遅らせることだけだった。
帰り際、女は玄関で言った。
「先生。私、ちゃんと、私でしたか?」
響子は答えなかった。
答えられなかった。
三日後。
ニュースの片隅で、その女が“自殺”したと報じられた。室内は争った形跡もなく、遺書もない。ただ、スマートフォンだけが壊れていた。
画面の内側から、コン、コン、コンと叩かれたように。
その夜、間宮響子は、自室で書類を整理していた。
不意に、スマートフォンが点灯する。
通知はない。着信もない。
だが、インカメラが起動していた。
画面に映るのは――間宮響子。
しかし、瞬きのタイミングが、少しだけ、遅れていた。
画面の中の“彼女”が、ゆっくりと口を動かす。
「……先生。今度は、あなたの番です」
その瞬間、響子は悟った。
あれは、特定の誰かを狙う存在ではない。
“生きているふりが上手な人間”を、選んでいるのだと。
スマートフォンの画面が、静かに暗転した。
だが、部屋のどこかで――。
もう一人分の呼吸が、確かに続いていた。
――(完)――
孤独な人間の隙間-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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