第2話「最初の剪定と、暗殺者の少女」
能力を手に入れて最初の夜。僕はセレスティアの寝室の窓辺で、月明かりに照らされた彼女の寝顔を見下ろしていた。
無防備で、安らかな呼吸。世界を背負うにはあまりにも華奢な肩。
布団から少しだけはみ出した足先さえも、僕にとっては国宝よりも尊い守るべき対象だ。
「……可愛い。本当に、天使みたいだ」
独り言が漏れる。彼女の小指から伸びる『死の確定運命(黒い糸)』は相変わらず禍々しく脈打っているが、今はそれを見ている余裕はない。
もっと直接的で、急を要する『赤色の糸』が視界の端に映り込んだからだ。
『あら、早い客ね。勇者誕生の報せを聞いて、魔王軍が放った刺客かしら』
隣に浮かぶエリスが退屈そうに欠伸をする。
僕は音もなく窓を閉め、屋根の上へと移動した。
夜風が冷たい。だが、僕の腹の底には、それ以上に冷たく、ドス黒いマグマのような感情が渦巻いていた。
――僕のセレスティアの安眠を、どこのどいつが妨げようとしている?
赤黒い糸の先――闇夜に溶け込むように、一人の影が走ってくる。
屋敷の警備を易々とすり抜ける身のこなし。小柄な体躯に、獣のような耳と尻尾。亜人種の中でも隠密に長けた『黒狼族』の少女だ。
「……おい」
僕が声をかけると、影はピタリと止まり、屋根の瓦に爪を立てた。
月光の下、露わになったのはボロ布のような装束を纏った少女。年の頃はセレスティアと同じくらいか。手には毒塗りの短剣が逆手に握られている。
「……一般人。どいて」
少女――クロエの瞳には感情がなかった。ただ任務を遂行するだけの機械のような冷たさ。
彼女の心臓から伸びる『赤い糸(殺意)』は、僕を通り越し、真っ直ぐに背後の部屋、セレスティアの喉元へと繋がっている。
「勇者を殺しに来たのか?」
「……邪魔をするなら、お前も殺す」
問答無用。クロエが地を蹴った。
速い。ただの一般人である僕の動体視力では、その動きを追うことすら不可能だ。
瞬きの間に、毒の刃が僕の頸動脈を切り裂き、その足でセレスティアの寝首を掻く――はずだった。
だが、僕には『結果』が見えている。
そして何より、僕の中で何かが「プツン」と切れる音がした。
(――殺す? お前ごときが、僕のセレスを?)
「残念だけど、その脚本はボツだ」
殺気が肌を刺す寸前、僕は一歩も動かずに右手をかざした。
実体はない。だが、僕の意識の中には確かに、世界すら切り裂く巨大な『鋏』の感触があった。
「……あの子の肌に、1ミリでも傷がつくと本気で思ったのか?」
ジョキンッ。
乾いた音が、僕の脳内だけで響く。
僕はクロエから伸びる『セレスティアへの殺意』の糸を、慈悲なく根元から断ち切った。
「……え?」
目前まで迫っていたクロエの動きが、空中で不自然に停止する。
まるで糸が切れた操り人形のように、彼女は屋根の上にドサリと崩れ落ちた。
振り上げた短剣がカランと音を立てて転がる。
「な、んで……? 私、どうして……殺そうと……」
彼女は震える手で自分の頭を押さえた。
目的を失った人形。空っぽになった殺意の器。
混乱し、恐怖する彼女を見下ろしながら、僕は冷酷に笑みを深める。ただ因果を切るだけでは生ぬるい。
僕の大切な幼馴染に牙を剥いた報いと、そして今後の有効活用(リサイクル)のために、彼女の存在意義ごと書き換えてやる必要がある。
僕はクロエの前にしゃがみ込み、彼女の顎を強引に掴んで上を向かせた。
「いいか、よく聞け。駄犬」
僕はクロエの『空の糸』を掴み、僕自身の小指から伸びる『絶対支配』の概念と、どろりと濃厚に結びつける。
そして、呪いのように、福音のように、彼女の耳元で囁いた。
「君は、セレスティアを殺しに来たんじゃない。……彼女を害する全ての敵を、その牙で噛み殺すために、僕の元へ来たんだ」
ドクン、とクロエの瞳が大きく揺らぐ。
因果の改竄。事実の書き換え。
「そ、そんな……私は……」
「君の命は、さっき僕が拾ってやった。だから君の心臓も、手足も、魂も、これからは全て僕のものだ。……違うか?」
僕が少しだけ『圧』を強める。
もし拒否すれば、因果ごと存在をミンチにする――そんな明確な殺意を込めて。
彼女の中で「勇者を殺す」という命令(プログラム)が、恐怖と、そして抗えない「絶対者への服従本能」によって上書きされていく。
「……っ、あ……ぁ……」
クロエの瞳から光が消え、代わりに熱っぽい陶酔と、迷い子のような依存の色が浮かんだ。
彼女は這いつくばるようにして僕の足元に擦り寄り、靴先に頬を擦り付ける。
震えは止まっていない。だがそれは恐怖ではなく、強大な主人に出会った歓喜の震えだった。
「……あるじ、さま」
「ああ、そうだ。クロエ。君の刃は誰に向けるべきだ?」
「主様の……敵。そして、勇者セレスティア様を……害する、全てのゴミ屑ども……」
「いい子だ」
僕はクロエの頭を撫でる。
獣耳がピクリと反応し、彼女は恍惚とした吐息を漏らした。
先ほどまでの殺意の塊が、今はただ僕の愛玩動物として喉を鳴らしている。
ゾクリとした戦慄と、仄暗い全能感が背筋を駆け上がる。
これが僕の力。人の心すら書き換える、冒涜的な力。
でも、それがどうした?
セレスティアが安全なら、僕は悪魔にだってなってやる。
「……これからは僕の影となって動け。セレスティアの視界には入るな。だが、彼女に指一本触れようとする奴がいたら、その前に処理しろ」
僕は彼女の耳元に唇を寄せ、低く告げた。
「もし失敗して、あの子にかすり傷一つでもついたら……その時はわかっているね?」
「はい……ッ! その時は、この身を八つ裂きにしてください……! ああっ、主様、もっと命令を……私に、存在意義をください……」
クロエは完全に堕ちた。
セレスティアを守るための、最初の、そして忠実な「狂犬」が手に入った。
僕は月を見上げる。
セレスティアの寝息は変わらず穏やかだ。
ああ、なんて美しい夜だろう。
「……さて、次はどいつだ? 僕のセレスの邪魔をする奴は」
(第2話 完)
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