第1話「死にゆく勇者と、抗う観測者」

 世界は残酷なほどに美しく、祝福の鐘の音は吐き気がするほど澄み渡っていた。

 王都の大聖堂。ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光の中、一人の少女が聖剣を引き抜いた。


 プラチナブロンドの髪がふわりと舞い、透き通るような碧眼が意志の強さを宿して輝く。

 セレスティア・ルミナス。僕、モブ・ヴェインの幼馴染であり、たった今、人類を救う『勇者』として運命付けられた少女だ。


「おお……! ついに現れたか、伝説の勇者が!」

「これで魔王の脅威も去るぞ! 万歳! セレスティア様万歳!」


 神官たちの感涙、民衆の歓声。誰もが彼女を英雄として称え、希望を見ている。

 だが、僕の目に見えているものは違った。


(……ふざけるなよ。なんだよ、あれは)


 僕は拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで現実を保つ。

 セレスティアの華奢な小指。そこには、誰にも見えていないはずの『糸』が絡みついていた。


 他の人間から出ている白く頼りない「可能性の糸」とは違う。

 それはドス黒く濁り、コールタールのように粘着き、決して解けない鎖のように彼女を縛り上げている。


 そしてその糸は、大聖堂の天井を突き抜け、遥か北――魔王城の方角へと真っ直ぐに伸びていた。


 あれは『確定した死』だ。


 彼女は世界を救う。魔王を倒すだろう。

 だが、その代償として必ず死ぬ。相打ちか、あるいは呪いか。

 シナリオは既に完成しており、この喝采は彼女への葬送曲に過ぎない。


「ヴェイン!」


 式典が終わり、人波が引いた回廊で声をかけられた。

 振り返ると、聖衣を纏ったセレスティアが小走りで駆け寄ってくる。先ほどまでの凛とした表情を崩し、年相応の無邪気な笑顔で。


「見て見て! 聖剣、本当に抜けちゃった! えへへ、私すごいでしょ?」

「ああ……すごいな、セレス。本当にかっこよかったよ」


 僕は喉の奥から這い上がってくる嘔吐感を飲み込み、いつもの「幼馴染のモブA」としての笑顔を貼り付ける。


「むー、反応が薄いなぁ。もっと褒めてよー」


 セレスティアは僕の腕にぎゅっと抱き着いてきた。

 柔らかい感触と、日向のような甘い匂い。


 彼女は昔からこうだ。誰にでも優しい聖女のようでいて、僕の前でだけは甘えん坊の妹のように振る舞う。

 上目遣いで僕を見上げる彼女の瞳には、微かな不安が滲んでいた。


「……ねえ、ヴェイン。私、ちゃんと勇者になれるかな」

「なれるさ。お前は誰よりも優しいからな」

「優しいだけじゃダメだよ。魔王を倒さなきゃいけないんだもん」


 彼女は自身の小指を――あの忌々しい黒い糸が絡みついた指を――僕の目の前にかざして、小指同士を絡ませようとする。


「約束して、ヴェイン。私がもし挫けそうになったら、ヴェインが支えてね。昔みたいに」

「……ああ。約束する」


 指切り。

 僕の指が彼女の指に触れた瞬間、ビリリと黒い糸から冷気が伝わってきた気がした。


 彼女は死ぬ。この温もりは、数年後には冷たい骸になる。

 世界のために? 人々の平和のために?

 

(ふざけるな)


 彼女が去った後、僕は一人、大聖堂の裏路地で壁を殴りつけた。

 拳から血が滲む。だが痛みなどどうでもいい。


「認めない……こんな脚本(シナリオ)は、絶対に認めないぞ」


 世界が彼女に死を強制するなら、僕が世界を騙してやる。

 魔王も、運命も、神ですらも出し抜いて、彼女が「生きていてよかった」と笑える結末をこの手で書き上げてやる。


『――あら、面白い男の子』


 脳内に直接、鈴を転がすような声が響いた。

 振り返ると、そこには誰もいない。ただ、空間が歪み、銀色の髪を持つ奇妙な女性の幻影が揺らめいていた。


『その絶望と執着、気に入ったわ。貴方になら、扱えるかもしれないわね』


 彼女――自称女神エリスは、妖艶に微笑みながら僕の胸に手を伸ばす。


『運命の剪定鋏(因果の剪定者)。この狂った物語を書き換える力を、貴方に貸してあげる』


 その瞬間、僕の視界が弾けた。

 世界中に張り巡らされた無数の「糸」が、はっきりと識別できるようになったのだ。


 僕はニヤリと笑う。

 ああ、これで見える。これなら切れる。


 セレスティアを殺す全ての要素を、僕が事前に摘み取ってやる。


「始めようか。最悪で最高な、ご都合主義の脚本作りを」


 観測者は覚醒した。

 全ては、愛するヒロインを救済するために。


(第1話 完)

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