第五話 魔女

「君は、この世界から無くなった方がいいと思うものはあるか?」

 ウィリアム……父がいつもの無表情で、息子であるヴィンセントにそう問いかけた。

 彼の突拍子な質問は、今に始まったことではない。しかし、返答に困る。これもいつものことだった。

「うん、まあ……いろいろあるけど……なんで?」

「私はね、何かを排除したい気持ちと憎悪する気持ちは、何も可笑しいことではないと思っている」

 遠くで無邪気な子供の声が聞こえた。母親と思しき女性の窘める声が、後に続く。

「この水槽の中には様々な魚がいる。彼らはお互いを食い合うことなく、共存できている。だからこそ、この水槽は美しいのだろう」

 親子の目の前には、横幅三十メートル以上を優に超える巨大な水槽が広がっている。

 今朝ウィリアムから突然、電話で何処か行きたい所はあるのかと尋ねられた。何も思い浮かばず、咄嗟に水族館と答えてしまった。二十歳この年にもなって子供染みていただろうか。

 イングランドは島国だが、水族館の数はそう多くない。ロンドンから遥か遠い距離を移動してまで連れてきてくれたことは嬉しいが、同時にほんの少し、罪悪感もあった。

 「ヴィンセント。秩序というものはね、何かを排除しなければ成立しないんだ。この水槽も、彼らを食い荒らすような種は入れられない。つまり、自動的に排除されている。それを、君は理不尽なことだと思うか?」

 戦争が終わり、世界が平和になろうとも、全ての生き物は平等に生きられない。残酷なことに。

 彼は単純に、善悪をはかりたいのではない。ヴィンセント・クレイヴンがどのような人間であるかを、確認したいだけなのだ。

「……いいや。それは、仕方のないことだと思う、よ」

 視界を覆いつくす澄んだ青は、本当に美しい。それが一匹の狂暴な魚によって血の色に染まる瞬間を想像し、背筋が寒くなった。

「君は、何かを切り捨てることの出来る人間になりなさい。たとえそれが、自分の命に替えられないものだとしてもね」


 ♦


 意識が暖かい泥の中に沈んでいる。その泥の中で、誰かに包まれているような安心感があった。遠い昔、故郷に置き去ってしまった温もりを取り戻したような――。


 目を開く。

 開けた視界の先には見知らぬ天井、背中には柔らかいスプリング。

 数分経って、漸くに気が付く。


 ――生きている、のだろうか。

 咄嗟に掛けられていたシーツを捲り、身体を確認する。

 腹部には、包帯とも少し違う奇妙な布が巻かれていた。痛みは特に感じられない。出血も止まっている。

 やはり、生きている。

 けれどあの時感じた「死」は、幻覚だとは思えない。ヴィンセントは何とも言えない居心地の悪さを覚えた。

 

 ここは、何処なのだろう。

 上半身を起こし、周囲を見渡す。

 アイボリー色の壁に、木製の簡素な家具たち。そしていま、自分が横たわっているベッド。

 どうやら、洋館の客室のようだ。

 一体どこの、誰のものか?

 一体誰が、どうやってここまで運んだのか?

 疑問で頭を悩ませていると、部屋の奥で扉の開く音がした。

 ヴィンセントは反射的に身構える。

 

「目が覚めたようね。調子はどう?」

 扉を開けて入ってきたのは、一人の少女だった。

 上等な金のように煌めく黄金色の髪に、黒で統一された洋服。外見は十代前半の少女だが、異様に大人びた雰囲気を纏っていた。

 何より目を引くのは。

 辰砂を溶かしたような赤い瞳。鋭い牙のような縦長状の瞳孔。

 この目のことは知っている。

「私はイルマ。この館の主である魔女」

 ノクセルペンティア。通称「魔女族」。

 蛇の眼を持つ、魔術に長けた者たち。

「先に言っておくけれど、私はちゃんと『蛇十字協会』に所属している者よ。ほら」

 そう言って彼女は身に着けていたレースグローブを外し、右手の甲をヴィンセントの方へ向けた。すると、輪の形をした蛇が十字を囲んでいる、赤い紋章が浮かび上がった。

 蛇十字協会とは、彼女のような魔女及び魔術師たちを擁する組織であり、本来粛清教会とは「交わらない」。

 それがまさか、このような形で関わることになるとは、思いもしなかった。

「……僕はヴィンセント。ヴィンセント・クレイヴンだ」

 ヴィンセントは彼女に刻まれた「証明書」を注意深く確認すると、自らも名乗り、敵意が無いことを彼女に示した。

「本当に驚いたわ。私の庭で余所者が争っていたんだもの」

 そこでヴィンセントは、はたと気が付く。

 彼女にまず、確認しなければならないことがあると。

「……そうだ。あの悪魔……ルシファーはどこへ行ったんだ?」

 自分を殺した筈の、あの悪魔のことを。

「あの悪魔なら、今頃暗闇の中で不貞腐れてでもいるんじゃないかしら」

 ヴィンセントは瞬時に、その言葉の意味を理解した。

「ここには本当に、悪魔の牢獄があるのか?」

「誰から聞いたの?」

「悪魔祓いをしていた神父が、悪魔から話を聞いたらしい。それでここの調査を依頼されたんだ」

「成程、そういうことね。いずれは嗅ぎ付かれるだろうとは思っていたけれど」

 彼女はさして動揺も否定もせず、右手を口元に添えて涼し気な表情をしていた。

「君は、何者なんだ?」

 そんな疑問が、口をついて出た。

「知りたい?」

 彼女は、怪しげに赤い瞳を三日月状に細める。その姿は、異様な美しさを放っていた。

「でも、教えてあげない」

 そう言ってそっぽを向く彼女は、気まぐれな猫のようだ。……女の子と猫の扱いは殆ど同じだと、誰かが言っていたような気がする。


 イルマはヴィンセントのいるベッドへと近寄り、傍らにあった椅子へ腰かける。お互いの距離が近づいたことで、ヴィンセントの目に、彼女の姿がより鮮明に映る。

 何処から見ても、彼女はまだ年端もいかない少女だ。しかしその所作は、ヴィンセントの周りにいる大人たちと比肩するか、それ以上に落ち着き払っている。

 彼女の赤い眼は、ヴィンセントを値踏みするように見つめている。初めて間近で見るそれに、全身が拘束されたような錯覚に陥った。

 ギリシャ神話に登場する、蛇の髪を持つ怪物メドゥーサは、見つめた相手を石化させてしまう眼を持つと言われている。魔女の眼にも、もしかするとそういった効果が――。

「まだ何か、聞きたいことがありそうな顔ね」

 彼女に催促され、我に帰る。

 ここまで理解出来ないことの連続で、頭の整理が追い付いていない。

「僕は、死んでいなかったのか?」

「ええ。辛うじて、だけれど。あのまま死なれたら寝覚めが悪いから、私が助けてあげたの」

「そうか……僕は、君に助けられたのか。ありがとう」

 素直な感謝の言葉を聞いて気を良くしたのか、彼女は満足気に目を細めた。

「それと、私があなたを助けたのはね、あなたに価値があると判断したから」

「……僕の体質のこと?」

「その反応からするに、教会でもいいように使われているみたいね」

「……」

「安心して。悪いようにはしないから。……私の言うことを素直に聞いてくれるのなら、ね」

「……分かってる。君は命の恩人だ。命令には従えってことなんだろう?」

「話が早くて助かるわ」

 当然の話ではあるが、ヴィンセントは彼女のことを何も知らない。それでも二十数年生きてきた上で、関わるべきではない人物をある程度見極めることは出来る。

 現状、彼女は「それ」には該当しない。それに協会に属しているのであれば、おいそれと粛清教会ヴィンセントに手を出すような真似は出来ない筈だ。

「当然だけど私はあなたを傷つけたりしないし、不当な要求もしない。私はただ、あなたという存在を『有効利用』するだけ」

 ヴィンセントは鎖に繋がれた囚人のように、彼女の言葉を黙って聞いていた。

「私はあなたを生かして、あなたの価値を買う。……私の計画のためにね」

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