第四話 ルシファー
生暖かい風が頬を撫でる。辺りには、いつの間にか薄い霧が立ち込めていた。
静かだ。
今この時、二人だけ世界から弾かれたような疎外感。
「久しぶりだね。何年振りかな?まさかお前が粛清教会にいるなんてね」
ルシファーを名乗った男は、妙に嬉しそうだった。まるで故郷の友人にでも接するような態度である。
しかしヴィンセントには、素直に応じる気など毛頭無い。相手の目を真っすぐ見据え、ルシファーに問いただした。
「また僕の前に現れて、何がしたいんだ?邪魔をするつもりなら、僕はここでお前を殺すしかなくなる」
ヴィンセントの反応が予想外であったのか、ルシファーは眼を丸くした。
「言っとくけど、あそこでお前と逢ったのは単なる『偶然』だよ。いや、『必然』かな?そんなの、お前が一番よく分かってるだろ」
「……」
ヴィンセントは、その言葉に言い返すことが出来なかった。自ら望んでいなくとも「それ」を引き寄せてしまうことは、自分が一番よく分かっている。
「でもオレはお前に会いたかったよ。それにオレは他の悪魔共と違って、人間をどうこうしようなんて思っちゃいないんだ。何せ人間っていう生き物を愛しているからね」
ルシファーは外見通りの軽薄な態度で、ヴィンセントに語りかける。
緊張状態は未だ続いている。
片や相手を睨み付ける男と、片や相手に笑いかける男。傍から見れば、奇妙な光景かもしれない。
「大体さあ、人を殺すのって非合理的だと思わない?すぐ暴力に訴えるのって、短絡的なバカだと思うんだ。知的生命体の行動じゃあないよね」
「……何が言いたい?」
「オレは野蛮な連中とは違って、好き好んで人間を傷つけたいとか思ってないってこと。現に最初に会った時だって、何もしなかっただろ?」
「信用できない」
「……ふーん」
彼の顔から、引き潮のように笑顔が消える。一瞬で、周囲の温度が下がるのを感じた。
「ま、そんな話はいいや。それはそうとお前、ここがどこか知ってる?」
彼は打って変わって、元通りの嘘くさい笑みを浮かべる。威厳こそ無いが、彼の言動には妙な威圧感があった。
「……取り敢えず、地獄ではなさそうだね」
「地獄?そんなもの無いよ。お前らが『ある』って思い込んでるだけ」
呆れた声で言いながら、面白くなさそうに地面の小石を蹴る。それは草の上を滑り、深い闇の中へ消えていった。
「この先には『面白いもの』があるんだ。気になるだろ?」
「悪魔を収容する牢獄のことだろう?それは一体何なんだ?場所を教えてくれたら、君を殺した後で確認する」
「なんだ、知ってるのか。でもオレだって詳しいことは知らないよ。お前のために、ここまで優しく案内してあげただけ。第一、悪魔であるオレがわざわざ牢獄に近づくわけ……」
ルシファーが言い終わらぬ内に、静寂を切り裂くような鈍い音と、乾いた発砲音が園内に響き渡る。
彼の胸部には、十字架のような形をした小型の剣が刺さり、頭部には銀の銃弾によって穿たれた穴が広がっている。そのどちらからも、赤黒い血が噴き出していた。
どれも死に至る傷であるというのに、彼は至って平然としていた。
十字剣及びシルバーバレットは粛清教会の使用する武器であり、悪魔や悪霊に対して充分効果を発揮する。しかしやはり彼ほどの悪魔となると、虫に刺された程度のものでしかないらしい。
「質問にさっさと答えてくれ」
「……ったく。話は最後まで聞けって両親に教わらなかったのか?……ああ、どっちもいなかったっけ」
煽るようなセリフをヴィンセントは冷静に聞き流し、追加で銃弾を撃ち込もうと、引き金に指をかける。
「でも、おかげでやりやすくなった」
ルシファーは不敵に笑いながら、自身から流れる血に触れ、その手を握り込む。
瞬間。
ヴィンセントの身体から、鮮血が舞う。
何か鋭い刃物が、脇腹を突き刺している。
――いいや、違う。これは、獣の牙だ。
黒い獣が、肉を食いちぎっている。
激痛に息が詰まる。視界が白く弾け、膝が落ちる。
朦朧とする意識に抗い、必死で状況を認識しようと感覚を研ぎ澄ませる。
耳障りな唸り声、闇の中で蠢く影。
一匹の真っ黒な犬が、眼前にいるルシファーの傍らで、鈍色の瞳を輝かせ、血が滴る牙を剝き出しにしている。そのぎらついた殺気が、闇との完全な同化を拒んでいた。
「高名な悪魔の特権でね。血液から『同類』を生成できるんだ。お前らの言う『魔術』に近いかな」
ルシファーは自身の胸に刺さった剣を引き抜き、まるで衣服に着いた埃を取り払うように、それを地面に放り投げる。
続いて、彼の忠実な下僕であるかのようにかしずいていた黒い犬に近づき、躾をするように頭を掴む。すると犬は黒い靄のようになって、一瞬で消えてしまった。
「同類」という表現と外見的な特徴から察するに、あれはイングランドの民間伝承に登場する「バーゲスト」だろう。
今まで何度か悪魔と対峙してきたが、このような能力を持つものは彼が初めてだった。彼の言う通り、悪魔としての力が強い故の特権なのだろう。
「まだ死んでないか。っつってもその様子じゃあ、長く持たないね」
ヴィンセントは抵抗しようと、残された力であがく。腹は食い破られているが、命はまだある。このまま死ぬことは、むしろ耐えられない。
ヴィンセントのその様子が癇に障ったのか、ルシファーは地面に転がる彼の腹を足で踏みつけた。
「ッ……ぐっ……!」
全身を貫く鈍い痛みに、声が漏れる。腹と口から、血が溢れ出す。
「案外生き汚いんだな、お前。んー……頭やったらいいのかな。まったく、家畜を屠殺するみたいだな」
まるで家に湧いて出た害虫の処理でもする調子で、足元に転がる像の破片の一部を手に取り、それを頭上へと掲げた。
空が見える。
空は人間がいる場所からはるか遠いところにあるけれど、今はそれが、更に遠く感じる。
「あ、そうだ。最後にもうひとつ、言っておこうかな」
悪魔は破片を持つ右手を下げ、まるで面白い遊びを思いついた子供のように、無邪気に語り始める。口から血を流して嗤う彼は、相変わらず楽しそうだった。
彼は先ほどから、何がそんなに楽しいというのか。「愛」がどうとか言っていたが、悪魔らしく所詮は人間を苦しめることが愉快なだけなのだろう。
「オレは人間の生み出す『愛』が好きなんだ。愛ってのは、苦難や悲哀を乗り越えてこそより輝くんだよ。結末が分かりきった物語なんてつまらない。だからオレは、その障害になるのが何より楽しいんだ。そうすればもっと見ごたえのあるものになるだろ?」
何を言っているのかわからない。こいつの言っていることは、端から理解不能だ。
聞く価値なんてないのに、ヴィンセントにはどうしてか、悪魔の言う「愛」という言葉が、心に重くのしかかった。
生まれてから今まで、自分はそれを知ることはできたのだろうか。
ここまでずっと、何処か空虚だったような気がする。
――ああ、でも。
誇るものが無い自分に、家族も、友人も、仲間もいてくれたことは。充分、幸せだったのかもしれない。
死ぬ間際になってそんなことを思うなんて、何とも滑稽な話だ。
「さあて。人間てのは、死んだらほんとに『天国』に行けるのかね。それとも――」
悪魔が再度、右手を振り下ろす。
ヴィンセントは目を見開き、その一連の様子を見ていた。
ここで目を閉じてしまえば、恐怖に呑まれたことになる。最後に、それだけは許せなかった。
視界が闇に染まる。
周りの音が、やけに五月蠅い。
人間は死ぬ時、五感のうち聴覚が最後に失われるという。
あの悪魔が、まだ何事かを言い立てているのだろうか。けれど、そんなことはもうどうだっていい。
薄れ行く意識の中ヴィンセントは、聴覚まで完全に失われるその時を、静かに待った。
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