第三話 再会
車輪の軋む音が途絶えると、ロザーハイズ駅に辿り着いた。風が吹き抜ける構内には、港湾の錆びた匂いが漂っている。時刻は夕方に差し掛かっていることもあり、人は疎らで閑散としていた。
ロザーハイズはテムズ川南岸に位置する港湾地区で、街には閉ざされた倉庫や低い煉瓦造りの住宅が立ち並んでいる。華やかなシティオブロンドンと比較すると寂れた雰囲気ではあるが、ヴィンセントはこの街並みが嫌いではなかった。
何分穏やかな土地で育ったものだから、都会での生活は何かと苦労が多い。煩雑に色々なものがひしめき合っていると、矮小な自分が押しつぶされてしまいそうな感覚に陥る。
それでも人間は生きていく以上、苦手なものと折り合いをつけなければならない。成長とは、苦しみに耐えることでもあるのだから。
そんな感傷も程々に、ヴィンセントは目的を果たす為、街へと足を踏み出した。
突如、足元に何かが触れた。下を向くと一匹の小さな黒い猫が、足に頭を摺り付けている。
黒一色の身体に、二つの輝く琥珀色の瞳。その昔、黒猫は魔女の眷属だとか不吉の象徴として扱わていたそうだが、あんなものは魔女狩りの混乱が生んだただの迷信だと、ヴィンセントは胡乱に思っていた。
姿勢を低くして、ガラス玉のような目を見つめる。動物と心を通わせるには、まず視線を合わせることだと、何かの番組で言っていた記憶がある。
「あっ」
目が合って数秒足らずで、猫は路地裏へと消えてしまった。気分屋な彼らの内面は複雑怪奇だ。
……あまり無駄なこともしていられない。立ち上がって、その場を去ろうと歩き出す。
その時。
一人の青年とすれ違った。髪の色が左右で白と黒に分けられた、何とも派手な出で立ちの男だ。
青年の方を振り返る。
視線に気が付いたのか、彼は横顔だけをこちらに向ける。
目元が黒いサングラスで覆われていて表情は分かりにくいが、青年の口角が僅かに上がったのが見えた。
しかし彼は何も言わず、背を向けて去っていった。
一分にも満たない一連の出来事は、まるでスローモーションのように、穏やかに過ぎ去った。
直後、「不安」が雪崩のように押し寄せる。
心臓の鼓動が早くなる。
全身の血液が熱を帯びる。
ヴィンセントは、その場から動かなかった。否、動けなかった。
そんな筈はない。そんなことがあっていい筈はない。
だってあれは、もう十年以上も前の話だ。その間「アレ」の姿を今まで一欠片も思い出すことなく、記憶から消し去られていた筈なのに。目の前の男は、「あの時」と一切容姿が変化していない。
――そうだ。自分は。
――この臓腑の奥底から湧き上がる、形容しがたい恐怖を知っている。
考えるよりも先に、足が動く。向かう方向は、青年と同じだ。
その様はさながら、全身を糸で吊られ操られる人形のようだった。
倉庫街の中、彼を見失わないよう追いかける。土地勘も無く、距離も離れているというのに、不思議と迷うことはなかった。
響く足音。壁に写り込む影。
彼はこれ見よがしに、己の道筋を示していた。
――まるで、自分の後を付いてこいとでも宣言しているようだ。
追っているのは自分の方なのに、むしろ獲物に狩られているような感覚。今のヴィンセントは、釣り針にかかった餌を、疑似餌だと知っていて食いつく魚のようなものだ。果たして獲物を見事に追い詰めるか。かえって自分が、愚かにも獲物の腹の中に収まるか。
しかし、罠であろうと構わない。
自分には、「アレ」を追う資格と義務があるのだから。
ヴィンセントは躊躇うことなく、歩みを進めた。
街を進むにつれ日は沈み、辺りを闇が覆っていく。夜は更に人通りが少なくなり、不気味な静けさに包まれていた。
道は緩やかな坂へと変わり、市街の明かりは遠くへ消え、原始的な森が視界を覆っていく。この先にある異界へと足を踏み入れたが最後、戻っては来られない――。黒と深緑の混合が、直感でそう感じさせた。
森にも青年の残した痕跡が絶えず残されていた。然程柔らかくはない土の地面に、ご丁寧に足跡が点々と続いてる。
ふと、有名な童話を思い出した。「ヘンゼルとグレーテル」だ。兄妹が両親によって森に捨てられてしまうが、兄であるヘンゼルは、帰り道が分かるようパンの欠片を森に落としていた。しかしそれらは全て無慈悲にも、鳥たちに啄まれてしまう。そして兄妹は森を彷徨い、魔女の住むお菓子の家へ……。
この童話を初めて聞かされたのは、孤児院にいた時だったろうか。何故かその日の夜は、不安で中々寝付けなかったことを思い出した。今思えば、自分は何が不安だったのだろう。
――ああ、そうか。
兄妹が「親に捨てられた」ことだ。
ヴィンセントは両親のことを何も知らない。けれどこの話を聞いた時、「自分も親に捨てられた」かもしれないという考えが、ぐるぐると頭の中を駆け回ったのだと思う。
童話の最後。恐ろしい魔女を倒した後、兄妹が無事に家へ帰ると元凶である継母は亡くなっていて、優しい父と共に穏やかに暮らす。
御伽噺らしいハッピーエンドだ。けれどヴィンセントは、複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
捨てられたとしても、親子の絆がある。たとえ離れていても、自分の居場所がある。
それは、素晴らしいことだ。本来家族とは、そうあるべきだ。
自分には、「仮初の家族」には、何があるのだろう。
自分の帰るべき場所は、どこなのだろう。
ヴィンセントは辿ってきた道を振り返り、遠くを見つめた。
森の何処かで、鴉の鳴く声がした。
森の中を数十分程進んだだろうか。
木々の隙間から、違う景色が顔を覗かせた。事前に地図で確認してはいたが、実際にこの森は然程広くないようだ。
鬱蒼とした森の景色が途絶え、視界が開ける。
現れたのは、蔦に覆われた鉄門。更にその向こうには、鉄柵で囲まれた廃墟同然の温室。
錆び付いた門扉に刻まれた文字を確認する。掠れていて殆ど判別できないが、パズルのピースを嵌めるように浮かんだ文字列を並べ、解読を試みる。
そして、ひとつの単語に辿り着いた。
『グリムローズガーデン』
そこは奇しくも、当初の目的地であった植物園だった。
話で聞いていた通り、随分と荒れ果てていて不気味な場所だ。蔦や雑草があちこちに伸びており、園内の大部分を浸食してしまっている。一般的な植物園で見られる美しい花々など皆無であった。
かつては名のある貴族の所有物だったのだろうが、今や見る影もない。まるでこの場所だけ忘れ去られたまま、世界に取り残されたようだ。
古代ギリシア彫刻を思わせる彫像は崩れ落ちて瓦礫と化し、枯れた噴水は草花と人々に水という潤いを与えない。園の中心に佇む温室はすっかり朽ち果てており、入れば最後、侵入者を食い殺す恐ろしい怪物にも見える。
その怪物の口を前に、一人の青年が立ちはだかっていた。
「また会ったね、ヴィンセント。オレのこと、覚えていてくれたようで嬉しいよ」
目の前の男は、「あの時」となんら変わらない調子でそう言った。
「……お前は、何なんだ?」
最大限の敵意と警戒を込めて問う。
しかし青年はそれを、まるで意に介していないようだった。
「あ?……ああ、そういえばあの時名乗ってなかったっけ」
彼の黒く色付いたレンズの奥にある瞳が、緋色に怪しく輝く。それは、異常事態を知らせる警報器のようでもあった。
「オレはルシファー。当然、名前ぐらいは知ってるだろ」
青年が告げた名。それは、教会が忌むべき名。悪魔の名前。
――やはり黒猫は、不吉の象徴だ。
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