第一章
第一話 教会
夢を見ている。
気味の悪い夢だ。
黒一色の闇の中で、大勢の人間が倒れている。道端に転がる石のように。
上を見上げる。
太陽の輝きとも違う、目を焼く程の光がそこにはあった。
胸が苦しい。喉が渇く。
砂漠の中、オアシスを求める旅人のように彷徨う。
けれど、思うように進めない。夢の中は、自由なようで不自由だ。
一人の女が、行く手を塞いだ。全身が白くて、はっきりと姿形が判別できない。
目の前の女が自分に向かって手を伸ばすと、女は泥のように溶けて消えた。
その泥もやがてはらはらと霧散し、眩い天上へと昇っていった。
♦
「こんなところで居眠りだなんて、随分悪い子だねえヴィンセント」
揶揄う声に揺り起こされ、ヴィンセントは気怠げに瞼を開ける。覚醒したばかりのぼやけた視界に、十字架の飾られた祭壇が映る。
どうやら、礼拝堂で眠ってしまっていたようだ。
「……もしかして、僕が起きるまでずっと隣に居ました?」
「うん。君の寝顔をじっくり観察させてもらったよ」
「……眠ってしまったことは申し訳ないですけど、起こしてくれれば良かったのに」
「そうしたかったんだけどね。あんまりにも穏やかな寝顔だったからさ。それに今日はあまり人が来ていないしね」
言われて辺りを見回す。広々とした礼拝堂に対して、人はまばらで閑散としていた。人のことはあまり言えないが、現代ではこうしてわざわざ礼拝堂までやってきて祈りを捧げる者は、少なくなっているのだろう。
未だぼんやりした頭で、礼拝堂に飾られた絵画を眺める。ヴィンセントは絵画に明るくなく、どれもいつ誰が描いたのか、全く知らないものばかりだった。
ふと、天使が描かれたそれに目が留まる。幼い子供の姿に猛禽類の翼の生えた、西洋絵画でよく見られる天使像だ。
「……司教さんは、天使を見たことはありますか?」
「……いいや、ないね。そもそも高位の聖職者でも見た者はいない筈だよ。天使は主の使いである故に、おいそれと我々が干渉すべき存在ではないからね」
やはり、そういうものなのだろうか。
せめて天使にも出会えたのなら、この呪われた身体にも価値があったのかもしれないというのに。
「んー……君の『善い人間』でありたいっていう気持ちは素晴らしいけれど、常に気負っていては疲れてしまうよ。人間なんて不完全で当然だし。少しの欠点なら、神様も見逃してくれるさ。ほら、君の周りの人たちを思い出してみなよ」
艶やかな黒い長髪を揺らし、司教が微笑む。
恐らく気を利かせてくれたのだろう。流石、監督司教を任されている男だと、ヴィンセントは改めて感心した。辛気臭い感情が、顔に出ていただけかもしれないが。
「君はそのままで良いと思うよ。隊長殿もきっと同じ気持ちさ」
「そう、でしょうか」
ヴィンセントは「父」の、鉄面皮の下に隠れている感情を想像してみた。
「……わかんないなあ」
「なあに。いつの時代も、親の心は中々子供に伝わらないものさ」
二人で礼拝堂を出て、大聖堂側に向かう。
ロンドン南東部の教会地区にひっそりと佇む聖アウレリウス大聖堂は、十九世紀半ばに建立された聖統教会派の大聖堂だ。イングランドの信徒の多くは国教会だが、聖統教会も世界的宗派のひとつである。宗教改革やらを経て、首都ロンドンにも立派な大聖堂が建てられるに至った。
ウェストミンスター宮殿と同じくネオ・ゴシック様式の建築物であり、時間の経過と共に刻まれた雨だれと黒ずみが、年季を表している。ヴィンセントは初めてここへ来た際に聞いた、「建物にはその歴史が現れる」という父の言葉を思い出した。父は子供相手でも小難しいことを言うので、年を経るにつれ意味に気が付くことが多い。
大聖堂を構えていることもあって教会の敷地は広く、大聖堂に隣接する礼拝堂から街とを隔てる門に到着するまで、歩いて数十分はかかる。必然、司教との世間話に花を咲かせることとなった。
「それにしても珍しいね。君は普段、教会には長居しないのに」
「?そうでしたっけ?自分ではそんなつもりは無かったんですけど」
「そうなんだ?神父殿からも何か言われて……」
門の近くまでやって来ると、司教が何かを思い出したように、はたと立ち止まった。かと思うと、含みのある笑顔を見せる。
「君、この後時間ある?」
「……ありますけど」
「なら良かった。ちょっと『おつかい』をお願いしたいんだよね」
「はぁ」
ヴィンセントの口から、思わず気の抜けた返事が漏れる。
司教との付き合いも長い。ヴィンセントにとっては、ある意味もう一人の親代わりでもある。それ故、時折態度が気安くなってしまう。
「神父殿から『例の件』については聞いているよね?」
「『例の件』……?ああ。ロザーハイズの件ですか?」
「そう。急を要する案件では無いから、また別の機会に依頼しようと思ったのだけど、どうせだから今君にお願いしちゃおうかな。ま、居眠りの対価だと思ってくれよ」
「……はい」
司教は思いの外抜け目がない人物だ。人を上手く使うこともまた、上に立つ者の勤めなのだろう。
「神父殿にはこの後僕から言っておくけれど、無理にとは言わないよ。私は彼より人使いが荒くはないからね」
「いいえ、これから向かいます。どうせ普段からやることもないですから」
「そう?助かるよ」
ヴィンセントは素直に了承の返事をして、門から出ようとする。
彼の言う通り居眠りのこともあるが、ヴィンセントとしては指示に逆らう理由も無かった。
「ヴィンセント」
教会に背を向けたところで、司教に呼び止められた。
「これだけは覚えていてね」
彼の声色は一層穏やかさを帯びて、何か重大な神託を告げるかのようでもあった。
「君が居なくなったら悲しむ人は、ちゃんといるよ」
ヴィンセントはその言葉に笑顔で答え、門を超えて街へと向かう。
上手く笑えていたかは、分からない。
世界各国に信徒を抱える巨大宗教の宗派のひとつ、聖統教会。グレートブリテン島南部、イングランドにも彼らの信仰は広まっている。
聖アウレリウス大聖堂はロンドン南東部サザーク区、テムズ川南岸の高台にあり、周りは並木道と古い住宅街の静けさに包まれている。教会区域ということもあり、この辺りの地域は穏やかで居心地が良い。
自分が身を置いている場所が異質なので、尚更そう感じる。
道すがら、サッカーボールを持って走る子供たちとすれ違う。ヴィンセントはサッカー、というよりスポーツ全般はからしきだった。彼がまだ孤児院にいた頃、スポーツをしてはしゃぐ子供たちの輪に混ぜてもらった時、大恥をかいたことを思い出してしまった。
結局、孤児院では居心地が悪いままだった。
子供たちの執拗ないじめにあっていたわけでもない。シスターたちも、みんなヴィンセントに優しかった。
初めて「父」と出会ったあの日。
「価値を活かす」、「生きるべき場所へ連れていく」という彼の言葉を信じ、「息子」となる決断をしたあの日。
あれから、十四年もの歳月が過ぎた。
あの時の約束は、既に果たされている。
「教皇聖府治安維持部隊」。
司教や司祭の平服であるカソックではない、軍人のような黒いコートに身を包む者。
聖統教会の統治機関である教皇聖府の中で唯一、武器による武装を許されている者。
教会を守る盾であり、神に牙を剥く異端へ剣を振るう者。
いずれ彼方より来る黙示録の獣の顕現を、その命に代えても阻止する者。
――正式名称「粛清教会」。
そう。全ては自分の価値を示すため。
この世に蔓延る異端を排除するため。
ヴィンセントは、聖統教会の生きる武器となったのだ。
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